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落合徳川ぼたん園 / The Tokugawa Peony Garden at Ochiai

吉田博 / Yoshida Hiroshi

この度は、横浜美術館で開催される「開館50周年記念 モダンアートの街・新宿」展に出品される、吉田博の木版画《落合徳川ぼたん園》をご紹介いたします。

作品名:落合徳川ぼたん園 作者名:吉田博 制作年:1928年 技法・素材:木版・布 所蔵:横浜美術館

作品の背景と制作意図

《落合徳川ぼたん園》は、近代風景画の第一人者として知られる版画家・吉田博(1876-1950)が、1928年に制作した木版画です。この作品は、吉田博の代表的な版画シリーズの一つである「東京拾二題」の中の一作として位置づけられています。

吉田博は、福岡県に生まれ、当初は洋画家として活動し、油彩画や水彩画で高い評価を得ていました。しかし、1925年、49歳で本格的に木版画制作へと転身します。この転機は、関東大震災で被災した画家の作品を販売するために渡米した際、日本画系の木版画がアメリカで高い人気を博していることを知ったことに起因するとされています。

彼は伝統的な浮世絵の分業制とも、当時の創作版画とも異なる独自の制作体制を築きました。自ら彫師や摺師を雇い入れ、制作の全工程を厳しく監修することで、自身の絵画的な表現を追求したのです。

本作のモチーフとなった「落合徳川ぼたん園」、通称「静観園」は、かつて東京・下落合にあった徳川家の別邸に設けられたぼたん園です。例年4月下旬から5月にかけてぼたんが咲き誇る時期には一般公開され、東京近郊の花の名所として多くの人々に親しまれていました。吉田博の息子である吉田遠志も、幼少期にこのぼたん園を訪れた思い出を語っており、画家にとって身近で魅力的な題材であったことがうかがえます。同郷の画家であり、当時下落合にアトリエを構えていた満谷国四郎の勧めもあり、この地が作品のテーマに選ばれた可能性も指摘されています。

技法と素材

この作品は「木版・布」という表記がされており、木版画の技法が用いられています。吉田博の木版画は、伝統的な木版の技術に西洋絵画の写実的な描写を取り入れた独自の表現が特徴です。彼は、淡い色彩を何十回も摺り重ねることで、油彩画のような厚みや水彩画のような繊細な色彩表現を実現しました。

特に、空気感、光の移ろい、雲の動き、水面の反射といった、刻一刻と変化する自然の情景を、多色摺りやぼかしなどの精緻な摺りの技術を駆使して表現しています。彼の作品に見られる明瞭な線描と奥行きのある陰影表現は、その卓越した技術の賜物と言えるでしょう。本作においても、ぼたん園の豊かな色彩や奥行き、そしてそこに漂う穏やかな空気感が、これらの独創的な技法によって見事に捉えられています。

作品の意味と影響

吉田博は、風景画を描く上で「風景に宿る真の美を見出し、その美しき姿の深い理解がなくては、真の風景画を描き得るものではない」という信念を持っていました。彼は自ら体感した風景を作品に昇華させることで、単なる写実を超えた、風景が持つ本質的な美しさを表現しようとしました。

《落合徳川ぼたん園》は、都会の一角に広がる自然の楽園を、光と色彩の調和の中で描き出し、鑑賞者に安らぎと感動を与えます。この作品は、吉田博が追求した「新版画」の精神、すなわち伝統技術を基盤としながらも、西洋の表現を取り入れ、新しい芸術としての木版画を創造しようとした彼の意図を体現しています。

吉田博の作品は、国内だけでなく海外でも高い評価を受け、特にアメリカやヨーロッパで人気を博しました。彼の「超絶技巧」による、空気や大気、空間表現は、当時の版画では未開拓の領域であり、多くの人々を魅了しました。イギリスのダイアナ妃や精神分析医フロイトも彼の作品の愛好家であったと伝えられています。

今日においても、吉田博は川瀬巴水と並び称される新版画の代表的な作家として、国内外でその評価が高まり続けており、彼の作品は、日本の近代美術史における木版画の可能性を大きく広げたものとして、多大な影響を与え続けています。