吉田博 / Yoshida Hiroshi
開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」展にて展示される、吉田博の木版画「神樂坂通雨後の夜」についてご紹介します。本作品は1929年制作、木版・紙で構成され、新宿歴史博物館に収蔵されています。
吉田博は、明治から昭和にかけて活躍した洋画家であり、49歳となった1925年頃から本格的に木版画制作に情熱を傾けました。彼は欧米での滞在中に日本の版画が高い評価を得ていることを知り、日本の伝統的な木版画技法に西洋の写実的な表現を融合させた独自の木版画の創造を目指しました。 「神樂坂通雨後の夜」は、吉田博が手掛けた「東京拾二題」シリーズの一作として制作されました。神楽坂は明治以降、町人の街から花街へと変化し、東京でも有数の繁華街として知られる場所でした。吉田博は、夜、雨、そして光が織りなす情景に強い印象を受け、その魅力的な画題を木版画で表現しようと試みました。空気や大気、空間といった、木版画では未開拓であった表現に挑戦する意図が込められています。
本作品は木版・紙を用いて制作されています。吉田博の木版画技法は、浮世絵の高度な技術を継承しつつ、油彩画のタッチや水彩画の色彩表現といった西洋画の技法を取り入れている点が特徴です。特に、彼の作品は摺りの回数が非常に多いことで知られています。平均で30回、多い場合には100回近く摺りを重ねることにより、豊かな色彩と繊細なグラデーションを生み出し、空気感や光、水面の反射といった自然の移ろいを表現することを可能にしました。また、自身で彫師や摺師を雇い、厳密な監修のもと制作を行う「自摺り」と呼ばれる制作体制をとることもありました。
「神樂坂通雨後の夜」は、雨上がりの夜という特定の時間帯と気象条件における神楽坂の情景を捉えています。光と闇、雨に濡れた路面が反射する光の表現は、都市の夜の生命感と、一瞬の情景が持つ詩情を映し出しています。彼は同じ風景を異なる時間帯や天候で描き分ける連作を多く手掛けており、これは時間の経過とともに変化する自然や都市の表情を深く探求しようとする彼の姿勢を示しています。本作品もまた、雨上がりの夜という、はかなくも美しい瞬間を切り取ったものとして、その場の雰囲気や空気感を鑑賞者に伝えています。
吉田博は、伝統的な日本の木版画を刷新した「新版画」運動を代表する版画家の一人として位置づけられています。彼の作品は、その卓越した描写力と光の表現により、国内外で非常に高い評価を受けてきました。特に海外での人気は高く、「空気まで描くことができる」と評され、心理学者のフロイトやダイアナ妃といった著名人にも愛好されました。吉田博の作品は、西洋の写実表現と日本の伝統的な木版画技法を融合させた新たな表現領域を確立し、近代日本の美術史において重要な足跡を残しました。