中島清之
中島清之作「足摺」
この度ご紹介いたします作品は、日本画家・中島清之が1971年に制作し、第56回再興院展に出品された「足摺」です。彩色・紙を素材とし、194.5 × 150.0 cmという大画面で描かれたこの作品は、中島清之の多様な画業の一端を示すものとして注目されます。
作者である中島清之は、1899年に京都で生まれ、1989年に横浜でその生涯を閉じた日本画家です。彼は生涯にわたり、一見すると同一の画家とは思えないほど作風を変化させ続けたことから、「変転の画家」と評されました。京都で培われた仏教美術への深い知識と共感、そして古画研究で得た卓越した筆技を基盤としながら、清新な花鳥画から大胆にデフォルメされた人物画、さらには幾何学的な抽象表現まで、日本画の可能性を追求しました。 彼は常に「古いものと新しいものの反復作用を繰り返してきた」と語っており、古典とモダニズムを自在に行き来し、両者を統合させることを目指しました。
「足摺」が制作された1971年と同年に、「スケッチブック「足摺の漁師たち」より」という資料が存在することから、本作品は高知県の足摺岬、あるいはその周辺地域から着想を得た可能性が高いと考えられます。 足摺岬は、四国最南端に位置する景勝地であり、古くから弘法大師空海にまつわる伝説や、修行僧が自らの生還を断つ「普陀洛渡海(ふだらくとかい)」という捨身行が行われたとされる、深い精神性を帯びた土地です。 「足摺」という言葉自体には、悔しさで地団駄を踏む様子や、足をずるように歩く意味があり、空海が足を引きずったという説や、金剛福寺の和尚が嘆き悲しんで足摺をしたという伝承も残されています。 これらの背景から、中島清之は単なる風景描写に留まらず、足摺岬が内包する歴史、精神性、あるいはそこに生きる人々の営みや感情といった、より根源的なテーマを探求しようとした意図が推測されます。
作品は「彩色・紙」を素材としています。中島清之は伝統的な日本画の技法に精通しながらも、西洋絵画の刺激を取り入れ、構成的な画面作りや色彩表現において常に新しい試みを続けました。 彼の作品は、ときに大胆な色彩や構図、抽象的な要素を含むことが特徴です。1970年代に入ると、カラーテレビに映る流行歌手を描くなど、日本画のモチーフとしては異色な題材にも挑戦しており、時代の空気を敏感に吸収し、新たな画風を生み出し続けた画家といえます。 「足摺」においても、伝統的な日本画の顔料と筆致を用いつつ、現代的な感覚で足摺の地の持つ深遠な意味や情景が表現されていると考えられます。
「足摺」という作品名は、足摺岬の地理的・歴史的背景に加え、「足を摺る」という言葉が持つ多義的な意味合いを内包しています。岬にまつわる空海の伝説や、修行僧の捨身行における深い精神性、あるいは地団駄を踏むほどの強い感情など、作品は単なる場所の描写を超えて、人間の内面や存在そのものに対する問いかけを含んでいる可能性があります。中島清之が「常に古いものと新しいものの反復作用を繰り返してきた」と語るように、伝統的な主題や場所を通して現代的な解釈や精神性を表現しようとした、彼の芸術哲学が投影された作品であると解釈できます。
中島清之は日本美術院展覧会(院展)において4度の日本美術院賞を受賞し、後に同人となるなど、画壇の重鎮として活躍しました。 しかしその一方で、「変転の画家」と称されるほど多様な作風を展開したため、「焦点が定まらない」といった厳しい批評を受けることもありました。 それにもかかわらず、彼は「型を知りながら、一点ごとに未知に挑む『試作精神』」を生涯貫き、日本画の枠に留まらない多彩な作品を残しました。 「足摺」もまた、1971年に第56回再興院展という公募展に出品されたことから、当時の画壇においてその新たな試みが評価され、あるいは議論の対象となったことがうかがえます。彼の自由な創作姿勢は、後進の日本画家たちにも大きな影響を与えたと考えられています。