伊東深水
日本画壇において美人画の大家として知られる伊東深水(いとう しんすい、1898-1972)が1941年(昭和16年)に制作した《滝の白糸》は、彩色・紙、101.0 × 115.0 cmの作品です。本作は「国立劇場の名品展」にも出品され、その優美な表現が鑑賞者の心をとらえました。
伊東深水は、明治から昭和にかけて活躍した浮世絵師であり日本画家、版画家です。鏑木清方(かぶらき きよかた)に師事し、歌川派浮世絵の伝統を受け継ぎながらも、近代的な感覚を取り入れた独自の美人画様式を確立しました。彼の作品は、繊細な描写と柔らかな色彩が特徴であり、大正から昭和の日本画壇を牽引する存在となりました。
作品名である「滝の白糸」は、泉鏡花(いずみ きょうか)の小説、およびそれを原作とする戯曲で広く知られています。この物語は、水芸人である「滝の白糸」とお抱え運転手・村越欣弥(むらこし きんや)の悲恋と自己犠牲を描いたもので、日本文学におけるロマン主義の傑作として高い評価を得ています。伊東深水が本作を描いた意図としては、この物語の世界観、特に主人公である白糸の儚くも強い精神性や、哀愁を帯びた女性の美しさを日本画の形式で表現しようとしたものと推測されます。深水は、時代とともに移り変わる女性の風俗を端的に捉え、また普遍的な美を追求することを自身の美人画のテーマとしていました。
本作は「彩色・紙」を素材としています。伊東深水は、日本画の伝統的な技法を基盤としつつ、当時の新しい感性を融合させた表現を追求しました。彼の美人画は、対象となる人物の指先から着物の皺(しわ)一つに至るまで、細部にわたる美意識が行き届いていることで知られています。滑らかな筆致による優美な輪郭線、そして重ねられた繊細な色彩は、女性の肌の質感や着物の風合い、そして内面の情感をも豊かに描き出しています。日本画特有の柔らかな表現は、作品に深みと情感を与えています。
《滝の白糸》は、もし泉鏡花の物語をモチーフとしているならば、単なる美人画に留まらず、物語が内包する「愛と犠牲」「運命の悲劇性」「女性の強さと儚さ」といった深いテーマを視覚的に表現しています。伊東深水は、何気ない仕草の中に女性の感情や生活感が滲み出るような表現を得意としており、白糸の姿を通して、そうした人間ドラマや日本的な情緒を伝えることを意図したと考えられます。鑑賞者は、作品に描かれた女性の表情や佇まいから、物語の情景や登場人物の心境を想起させられ、物語への共感を深めることができます。
伊東深水は、上村松園(うえむら しょうえん)、鏑木清方とともに近代日本を代表する美人画家として評価されています。彼の作品は、伝統的な浮世絵の流れを汲みながらも、現代の風俗や女性像を新鮮な感覚で捉え、多くの人々に親しまれました。深水は、帝展や日展といった官展を中心に作品を発表し、日本芸術院賞を受賞(1948年)し、後に日本芸術院会員となるなど、日本画壇において不動の地位を築きました。
《滝の白糸》を含む彼の美人画は、浮世絵の古典的な美意識を現代に繋ぎ、日本美術史に大きな功績を残しました。その作品は、現代においても多くのファンを魅了し続けており、各地の美術館で展示され、その芸術性が高く評価されています。