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ひらかな盛衰記(笹引の段)

森田曠平

森田曠平の日本画「ひらかな盛衰記(笹引の段)」は、1989年に制作された、彩色・紙による作品です。縦149.0センチメートル、横264.0センチメートルという大画面に描かれたこの作品は、第74回再興院展で発表されました。現在、「国立劇場の名品展」において、その荘厳な存在感を放っています。

作者である森田曠平は、1916年に京都で生まれ、幼少期から病弱な体質であったものの、祖母を通じて能に親しみ、文学に広く触れることで、後の絵画主題の源泉となる素養を培いました。当初は洋画を学びましたが、後に小林柯白に師事して日本画を習得し、さらに安田靫彦の門下に入ります。安田靫彦の歴史画に深く感銘を受けた森田曠平は、古典文学や歴史風俗を題材にした格調高い風俗画や人物画、物語絵の世界を開拓していきました。彼の作品は、色彩豊かな歴史画を特徴とし、しばしば強い眼差しで無表情な女性像を描いています。その独特で静的な表現は、能や文楽から受けた影響が大きいとされます。

本作品の題材である「ひらかな盛衰記」は、1739年に初演された人形浄瑠璃、後に歌舞伎化された時代物です。その三段目にある「笹引の段」は、特に悲劇的で忠義が際立つ場面として知られています。この段では、木曽義仲の妻である山吹御前と幼い駒若丸が、老臣鎌田隼人とその娘お筆に守られて敵から逃れる道中が描かれます。大津の宿屋で追手が迫る中、暗闇の中での取り違えにより、同宿していた船頭の孫である槌松が駒若丸と誤解されて討たれてしまいます。山吹御前は、我が子ではない子が犠牲となった事実に苦悩し、絶命します。お筆は、主君である山吹御前の遺体を敵に見つけられないよう、大きな笹竹を切り出して葉の中に遺体をくくりつけ、肩にかけて笹の生い茂る山中を曳いていくのです。この行為は、主君への深い忠義を示すものとして描かれており、儒教的な価値観が背景にあると解釈されています。

森田曠平は、この「笹引の段」におけるお筆の哀しくも毅然とした姿と、その場の凄惨な状況を、自身の得意とする歴史画の手法と、洋画の技法を取り入れた彩色で表現しています。149.0×264.0cmという大画面は、そのドラマティックな情景を余すところなく伝え、観る者に強い印象を与えます。

「ひらかな盛衰記(笹引の段)」は、森田曠平の画業における円熟期の作品であり、彼の日本画壇における確固たる地位を示すものです。彼は日本美術院展で度々受賞を重ねており、昭和40年には日本美術院賞大観賞、昭和48年には内閣総理大臣賞、昭和57年には文部大臣賞を受賞するなど、高い評価を得てきました。この作品もまた、伝統的な題材に森田曠平独自の解釈と表現技法を融合させた傑作として、その芸術的価値を確立しています。