鈴木翠軒
国立劇場の名品展に出品されている、鈴木翠軒による書作品「菅原傳授手習鑑」は、書道の歴史と伝統、そして人間ドラマが凝縮された傑作です。1966年に制作されたこの作品は、墨と紙を用いて縦95.0cm、横185.0cmの堂々たるスケールで書かれています。
本作の作者である鈴木翠軒(すずき すいけん、1889-1976)は、近代日本の書道界を牽引した書家であり、教育者としても多大な功績を残しました。彼は明治22年(1889年)に愛知県に生まれ、丹羽海鶴に師事し、比田井天来の教えも受けました。特に、文部省の国定小学書方手本を揮毫し、「翠軒流」と呼ばれる明快な用筆と結体による書風を確立し、全国の小学校書道教育に大きな影響を与えました。
「菅原傳授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)は、延享3年(1746年)に初演された人形浄瑠璃および歌舞伎の三大名作の一つで、平安時代の菅原道真の失脚事件を題材に、道真を取り巻く人々の生き様を描いた作品です。特に「筆法伝授」の段は、書道の達人であった菅丞相(菅原道真)が、自身の筆法を誰に伝えるべきか思案する場面であり、書家である鈴木翠軒がこの題材を選んだことは、書の世界における「伝承」の重要性、そして菅原道真への深い敬意を示すものと考えられます。
鈴木翠軒は、本作が制作された1966年に勲三等旭日中綬章を受章しており、その円熟期において、自身の書に対する思想と、日本の伝統芸能に根ざした題材とを結びつけ、書芸術としての深遠さを追求する意図があったと推察されます。
この作品は、書作品の基本的な素材である墨と紙を用いて制作されています。鈴木翠軒の書風は、王羲之、空海、良寛らの書を深く研究し、さらに中国初唐の楷書(遂良、虞世南、歐陽詢)を取り入れた上で、自身の淡墨を駆使した奔放自在な書風を確立したとされています。 特に、起筆がシャープで引き締まっている点が「翠軒流」の特徴として挙げられます。
「菅原傳授手習鑑」においても、その経験と技術が遺憾なく発揮されており、文字の一つ一つに力強さと品格が宿っています。墨の濃淡や筆致の緩急が織りなす空間表現は、劇中の情景や登場人物の心情を彷彿とさせ、単なる文字の羅列に留まらない芸術性を示しています。
本作品は、歌舞伎の演目名である「菅原傳授手習鑑」を題材とすることで、日本の伝統文化に対する鈴木翠軒の深い理解と敬愛を表明しています。また、書の主題が「筆法伝授」という、書道における技術と精神の継承を象徴するものであることから、彼自身の書家としての使命感や、次世代への書道の発展に対する願いが込められているとも解釈できます。
文字を通して物語の世界観を表現する書作品として、書道の奥深さ、そして日本の古典芸能が持つ普遍的なテーマを現代に問いかける意味を持っています。
鈴木翠軒は、国定教科書の揮毫によって「翠軒流」を全国に普及させ、戦後も日展審査員、日本書作院会長、日本芸術院会員などの要職を歴任し、書道界の重鎮としてその地位を不動のものとしました。 1957年には「禅牀夢美人」で日本芸術院賞を受賞し、1968年には文化功労者に選ばれるなど、その芸術性と功績は高く評価されています。
「菅原傳授手習鑑」は、こうした輝かしい業績を背景に制作された作品であり、彼の代表作の一つとして、その技術と精神性が凝縮されたものとして評価されています。国立劇場の名品展において、鏑木清方、小倉遊亀、東山魁夷、髙山辰雄、加山又造といった日本美術史を代表する巨匠たちの作品と共に展示されることは、鈴木翠軒の書が美術作品として高い価値を持つことを改めて示しています。この作品は、書道が単なる文字の技術ではなく、深い精神性と物語性を持つ芸術であることを現代に伝える重要な遺産です。