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村井正誠

村井正誠「猫」:日本抽象絵画の先駆者が描いた、愛らしい生命の姿

この度ご紹介するのは、日本の抽象絵画のパイオニアとして知られる洋画家、村井正誠(むらい まさなり)による作品「猫」です。本作品は1980年(昭和55年)に制作されたリトグラフで、藤沢市が所蔵する招き猫亭コレクションの一点として、「没後55年 藤田嗣治と猫展」というテーマの中で紹介されます。

制作背景・経緯・意図

村井正誠は1905年に生まれ、1928年に渡仏し、アンリ・マティスやピエト・モンドリアン、パブロ・ピカソといった当時の前衛芸術から強い影響を受け、具象絵画から抽象芸術へと移行しました。帰国後、自由美術家協会やモダンアート協会の設立に携わり、日本の画壇に新風を吹き込んだ存在です。生涯を通じてユーモアに溢れる「人間」をテーマに作品を発表し続けましたが、動物、特に猫もまた、彼の創作の対象となりました。

藤田嗣治が洋画における猫の表現に大きな足跡を残した一方で、村井もまた、独自の視点から猫の姿を捉えました。「没後55年 藤田嗣治と猫展」という展示会は、藤田の猫をめぐる功績を振り返りつつ、日本の洋画家たちがどのように猫を主題としてきたかを探るものであり、村井の「猫」は、その多様な表現の一例として位置づけられます。本作品を所蔵する招き猫亭コレクションは、国内外の猫を主題とした作品を収集しており、芸術家と猫の共存や、猫の魅力的な一瞬を捉えようとする表現の試みが詰まっています。村井の作品がこのコレクションに収められ、こうしたテーマの展示会で紹介されることは、彼の猫作品が日本の美術史において重要な位置を占めることを示しています。

技法と素材

作品「猫」は、紙にリトグラフという技法で制作されています。リトグラフは「石版画」とも呼ばれ、18世紀末にドイツで発明された平版の版画技法です。この技法は水と油が反発する性質を利用するもので、平らな石板や金属板に、油性の描画材で直接絵を描きます。その後、化学処理を施すことで、描画部分はインクを引き寄せ水を弾く親油性となり、描画されていない部分は水が保持される親水性となります。版面を水で湿らせた後、油性インクをローラーで乗せると、描画部分のみにインクが付着し、これをプレス機で紙に転写することで作品が完成します。

リトグラフの最大の特徴は、描いた線の繊細なタッチや筆致、インクの濃淡を忠実に再現できる点にあります。多色刷りも可能であり、豊かな色彩表現が魅力です。村井は油絵だけでなく版画制作にも積極的に取り組み、このリトグラフという技法を用いることで、彼特有の色彩とフォルムの探求を、版画作品においても展開しました。

作品の持つ意味

村井正誠は、鮮やかな色面による半抽象的な構成から純粋な抽象表現へと作風を展開した画家です。彼の作品は大胆な図柄と色彩が印象的である一方で、深みと温かみを兼ね備えています。本作品「猫」においても、具象的なモチーフである猫を通して、村井が培ってきた抽象表現の要素や、色彩とフォルムの組み合わせへの探求が見て取れます。

猫という愛らしいモチーフは、時に自由奔放に、時に思慮深く、様々な表情を見せる存在です。村井は、その姿を自身の芸術哲学と融合させ、単なる写実を超えた、生命のユーモラスさや本質的な美しさを表現しようとしたのかもしれません。彼の作品に通底する洗練された明快さとダイナミックな力強さは、「猫」においても、観る者に語りかける普遍的な魅力を生み出しています。

評価と影響

村井正誠は、日本の抽象絵画の草分けとして、日本の美術史に大きな足跡を残しました。彼は自由美術家協会やモダンアート協会の創立メンバーとして、戦後の日本美術界を牽引し、国内外の主要な美術展で数々の賞を受賞しました。例えば、1962年には第5回現代日本美術展で最優秀賞、同年には第3回東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞しています。

彼の作品「猫」は、招き猫亭コレクションという専門性の高いコレクションに収蔵されており、猫をテーマとした展覧会で紹介されることは、その芸術的価値と、猫の表現史における重要性が高く評価されている証と言えるでしょう。村井の描く猫は、彼の抽象的な表現の中に具象的な温かみを加え、後世のアーティストや猫を愛する人々に、多様なインスピレーションを与え続けています。