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猪熊弦一郎

猪熊弦一郎による作品「猫」は、1945年に紙とインクを用いて制作され、現在丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に所蔵されています。この作品は、戦中から戦後への移行期という時代背景の中で、猪熊が猫というモチーフと深く向き合った軌跡を示すものとして、その意味合いを深く考察することができます。

制作背景・経緯・意図 画家・猪熊弦一郎は、無類の猫好きとして知られていました。小説家の大佛次郎からペルシャ猫を譲り受けたことをきっかけに猫との生活が始まり、多い時には一度に12匹もの猫を飼っていたとされています。彼の妻もまた猫を愛し、初期の作品では妻の肖像画に猫が添えられて描かれることもありました。 1945年という制作年は、第二次世界大戦の終結という激動の時代にあたります。戦時中は表現が統制され、画家たちが自由に創作活動を行うことが困難な状況でした。終戦前、猪熊は大病を患い、半年間の入院生活を送っています。この頃から、彼は精力的に猫を描き始めるようになり、戦後、表現の自由が回復すると、猫と女性を組み合わせた油彩画を多く手掛けるようになりました。 「猫」という作品は、こうした困難な時代の中で、猪熊が個人的な境遇と向き合い、内面から湧き上がる創作意欲を猫という身近な存在に託して表現しようとした意図が込められていると考えられます。猫は、彼にとって尽きることのない興味の対象であり、呼吸をするのと同じくらい自然なモチーフであったと評されています。

技法や素材 この作品は「紙、インク」という素材で制作されています。猪熊は、写実的なスケッチからシンプルな線描、デフォルメされた油彩画まで、多様な技法で猫を描きました。特にスケッチブックや紙の切れ端に、数多く即興的な猫の絵を残しており、1945年制作の「猫」も、そうした親密で直接的な表現の一つと位置付けられます。彼は猫を写生することはほとんどなく、猫の生態や特徴、さまざまなポーズが頭の隅々にまで刻み込まれていたため、自由な筆致で描くことができたとされています。この素材と技法は、彼の猫への深い愛情と、その時々のひらめきを素早く留めようとする画家の姿勢を示唆しています。

意味合い 猪熊弦一郎にとって、絵画とは「色と形のバランスによって美を作り出すこと」でした。彼は猫というモチーフを、この絵画の理想を実現するための「形」として捉え、様々な「色」とバランスよく配置することで、具象と抽象の枠を超えた表現を追求しました。 1945年の「猫」は、戦時下の閉塞感や自身の病という個人的な苦境の中で、彼が猫というモチーフを通じて心の拠り所や表現の自由を見出そうとした証とも解釈できます。猫は、単なる愛玩動物としてだけでなく、彼の芸術における探求の対象であり、造形を考える上でのヒントや気分転換でもありました。この作品は、そうした画家と猫との深い関係性を象徴する初期の重要な作品と言えるでしょう。

評価や影響 猪熊弦一郎の猫の絵は、彼の画業において重要な位置を占めています。戦後、彼はニューヨークへと渡り、画風は具象から抽象へと大きく変化しますが、その移行期においても猫は彼の作品に登場し、次第にその姿は抽象化されていきました。 「没後55年 藤田嗣治と猫展」でこの作品が紹介されることは、猪熊の猫の絵が、藤田嗣治以降の日本の洋画における猫の表現に大きな展開をもたらしたという評価を反映しています。西洋絵画では脇役とされることの多かった猫を、日本の洋画家たちがどのように個性的に描いてきたかという文脈の中で、猪熊の「猫」は、そのユニークな感性と表現の豊かさを示すものとして、現代においても多くの人々に愛され、美術史においても再評価されています。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館には、猫の絵だけでも約900点が収蔵されており、彼の猫作品全体がその後の芸術家や猫をモチーフとする創作活動に影響を与え続けています。