香月泰男
この度、「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて紹介される、香月泰男の作品「白猫」は、1956年(昭和31年)に制作され、下関市立美術館に所蔵されています。紙に鉛筆と彩色で描かれたこの作品は、洋画家・香月泰男の画業における特定の時期、すなわちシベリア抑留という過酷な経験を経て、日常の身近なモチーフへと眼差しを向けた頃の特性を示しています。
香月泰男(1911-1974)は、山口県出身の洋画家で、第二次世界大戦中のシベリア抑留体験に基づく「シベリア・シリーズ」が代表作として広く知られています。しかし、彼の芸術世界はそれだけに留まらず、故郷の自然、家族、そして動物たちといった身近な題材にも数多くの作品を残しました。特に1950年代後半は、彼の画風が大きく変化する転換期にあたります。
「白猫」が制作された1956年は、香月が初めてヨーロッパを訪れた年でもあり、この頃から、油彩画においては、木炭の粉や方解末(ほうかいまつ)を混ぜた独自の黒色を基調とした表現を確立していきます。 しかし、「白猫」は「紙、鉛筆、彩色」という技法で描かれており、これは油彩画とは異なる、より直接的で素描的な表現への志向を示しています。香月泰男美術館の収蔵品にはデッサンや素描も多数含まれており、モチーフを線だけでなく色彩も用いて作品として描く多様な表現が見られます。 愛知県美術館には、1958年に制作された水彩、クレヨン、鉛筆、紙を用いた作品も収蔵されており、この時期の香月が紙を支持体として様々な画材を試みていたことがうかがえます。
香月は、シベリア抑留から帰還後、しばらくの間、日常の穏やかな情景を描くことに専念しました。親子の情愛や台所の風景、ふるさとの植物など、身近な題材を通して、戦争によって破壊された日常と人間性への深い思索が込められています。 「白猫」もまた、彼の身辺に存在したであろう、ありふれた存在である猫に、画家の静かで深い眼差しが向けられた作品と考えられます。
猫というモチーフは、藤田嗣治をはじめ、多くの画家がその神秘性や愛らしさに魅了されて描いてきましたが、香月の「白猫」には、戦後の不安な時代にあって、ささやかな生命への慈しみや、日常の中に宿る安らぎを求める心情が映し出されていると解釈できます。彼は、描く対象の本質を捉え、余分なものをそぎ落とす独自の表現を追求しました。
この作品は、香月泰男がシベリアでの体験から目をそむけず、同時に、故郷三隅を「私の地球」と語り、その中で得られる日常の情景や生きとし生けるものへの愛情を表現し続けた画業の一端を示すものと言えるでしょう。彼の作品は、戦後日本美術史において大きな足跡を残し、その深い人間性と平和への祈りは、現在も多くの人々に感銘を与え続けています。