井上長三郎
井上長三郎作《猫》について
本稿では、現在開催中の「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて展示されている、井上長三郎による作品《猫》についてご紹介します。
制作背景と意図 洋画家、井上長三郎(1906-1995)は、激動の昭和初期に制作活動を開始し、生涯を通じて社会的な問題意識を強く持ち、社会批評や風刺を込めた大作を数多く発表しました。彼の作品には、ヒューマニズムと社会正義の立場から、人間の姿や社会のあり方を問いかけるものが多く見られます。しかし、その一方で、画家は自身の身の回りにある愛らしいもの、特に動物たちを優しい眼差しで描いた小品も残しています。 本作《猫》は、そうした井上長三郎のもう一つの側面を示す作品の一つです。板橋の自宅の庭によく遊びに来ていた野良猫を描いたものとされており、大作の制作の合間に描かれたと考えられています。これは、彼の社会的な問いかけとは異なる、日常の中で見出したささやかな生命への温かい視線と、個人的な心情を表現する意図から生まれたものです。
技法と素材 作品《猫》はキャンバスに油彩で描かれています。井上長三郎は、セザンヌの理念を追求した静物画や風景画も手掛けましたが、社会問題をテーマとした作品では激しいデフォルメを施した人間像を描くことが多かったとされています。しかし、この《猫》に見られる動物画では、対象の特徴をよく捉え、柔らかな筆致で描かれており、動物に対する画家の優しい眼差しが感じられます。その写実的でありながらも温かみのある表現は、彼の初期の純粋絵画の追求や、社会風刺画とは一線を画す、独自の表現様式を示しています。
作品が持つ意味 この《猫》という作品は、井上長三郎の芸術家としての多面性を象徴しています。彼は、政治や社会の裏側に隠された真実を追求し、時にはユーモアを交えながら人間とは何か、社会とは何かを問いかけ続けました。しかし、本作のような動物を描いた作品では、人間社会の矛盾や不条理から離れ、純粋な生命への共感や慈しみが表現されています。庭に現れる一匹の野良猫を描くことで、画家の持つ繊細で親密な感情が画布に込められており、鑑賞者にも安らぎと温かさを与える作品となっています。
評価と影響 井上長三郎の《猫》をはじめとする動物画は、彼の代表作である《漂流》や《東京裁判》といった大作とは異なる「少し違った魅力」を持つと評されています。これらの作品は、画家の人間性や日常の一面を垣間見せる貴重な資料でもあり、板橋区立美術館の入口看板のデザインにも採用されるなど、広く親しまれています。 本作は、希代の猫アート収集家として知られる「招き猫亭コレクション」に収蔵されており、猫を主題とした美術作品としての高い評価を受けていることを示しています。この度の「没後55年 藤田嗣治と猫展」における展示は、猫というモチーフを通して、社会派画家として知られる井上長三郎の隠れた一面に光を当て、彼の芸術の幅広さを再認識させる機会となるでしょう。