猪熊弦一郎
「没後55年 藤田嗣治と猫展」で展示される猪熊弦一郎の作品《猫(1)》は、1946年から1947年(昭和21年から22年)頃に制作された、紙に墨で描かれた作品です。この作品は岐阜県美術館に所蔵されており、後期展示で紹介されます。
この作品が制作された1946年から1947年は、第二次世界大戦が終結して間もない、日本の再建期にあたります。画家、猪熊弦一郎(1902-1993)はこの時期、疎開先から東京・田園調布のアトリエに戻り、本格的な多頭飼いの生活を始めていました。猪熊は無類の猫好きとして知られ、多い時には1ダースもの猫と暮らしていたとされます。猫を飼い始めたきっかけは、妻が小説家の大佛次郎からペルシャ猫の子猫を譲り受けたことでした。
彼の画業において猫は重要なモチーフであり、猫を描くことは「ほとんど呼吸することと同じくらい自然なことだった」と語るほど、深い愛情と関心を注いでいました。戦前、パリでアンリ・マティスから「おまえの絵はうますぎる」と評されたことを機に、猪熊は自分らしい表現を追求し、モチーフを単純化し、シンプルな線で表現するようになりました。この戦後の自由な表現活動の中で、身近な存在である猫を描くことは、画家の内面的な喜びや平和な日常への回帰を反映していたと考えられます。
作品《猫(1)》は、紙に墨という簡潔な素材と技法で描かれています。この時期の猪熊は、写実的なスケッチからシンプルな線描まで、多様な方法で猫の魅力を表現しており、墨を用いることで、猫の動きや形態を最小限の線で捉え、その本質を浮き彫りにしています。猪熊は猫の生態や特徴、さまざまなポーズを深く理解しており、写生に頼らずとも、頭の中に刻み込まれた猫の姿を自由に描き出すことができました。彼は絵を形と色のバランスによって構成するという姿勢を一貫しており、この墨絵もまた、形態への傾倒を示すものと言えるでしょう。
猪熊にとって猫は単なるペットではなく、画家の制作活動において重要なインスピレーション源でした。作品《猫(1)》は、猫という存在そのものへの画家からの深い愛情と、戦後における表現の自由、そして日常の中に発見される美への眼差しを象徴しています。具象と抽象の間を行き来しながら、あらゆるモチーフを「形」として捉え、そのバランスを追求した猪熊の画業において、猫の絵は彼のモダニズムの実践を顕著に示しています。
猪熊弦一郎は「猫の画家」として広く知られており、彼の描く猫の作品は多くの人々に愛されてきました。日本の洋画において、藤田嗣治が猫を主要なモチーフとして取り入れたことで、多くの画家が猫を個性的な主題として描くようになります。猪熊弦一郎はその流れの中で、藤田以降の猫の絵画史に大きな展開をもたらした画家の一人として高く評価されています。
彼の多様な作風は、写実的なスケッチから抽象表現まで多岐にわたり、彼の生涯にわたる芸術探求の軌跡を示しています。故郷である香川県丸亀市に開館した丸亀市猪熊弦一郎現代美術館には、彼が生前に寄贈した作品群が収蔵されており、猫の絵だけでも約900点にものぼるとされ、その膨大な数は彼の猫への深い思い入れを物語っています。《猫(1)》は、こうした猪熊の猫をめぐる豊かな世界の一端を示す貴重な作品として、現在も多くの美術ファンを魅了し続けています。