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猪熊弦一郎

猪熊弦一郎の作品「猫」は、1946年から1947年(昭和21-22年)頃に制作された、紙に墨で描かれた作品です。岐阜県美術館が所蔵し、今回の「没後55年 藤田嗣治と猫展」で後期展示されています。

制作背景・経緯・意図

画家、猪熊弦一郎は生涯を通じて猫を深く愛し、多い時には一度に一ダースもの猫を飼っていたと伝えられています。彼の妻、文子も大の猫好きであり、その影響で猪熊も猫の飼育を始めたとされています。猫は猪熊にとって、私生活だけでなく作品のモチーフとしても極めて重要な存在でした。 この作品が制作された1940年代後半は、第二次世界大戦の終戦直後であり、戦時下の表現統制が解かれたことで、画家がより自由に創作活動を行えるようになった時期と重なります。 猪熊は、パリ滞在中に師事したアンリ・マティスから「おまえの絵はうますぎる」と評されたことをきっかけに、自身の画風を確立するために試行錯誤を重ね、モチーフを単純化し、シンプルな線で表現する方向へと向かいました。 猫は、画家にとって身近なモデルであり、その多様なポーズや習性を観察し、独自の視点で表現するための絶好の対象であったと言えます。彼は、他の誰も描いたことのない方法で猫の形と色を描きたいという意図を持っていました。 猪熊にとって猫を描くことは、ほとんど呼吸をするのと同じくらい自然な行為であったと語られています。

技法や素材

この作品は「紙、墨」という素材と技法で制作されています。猪熊は、キャンバスに描かれた油彩画だけでなく、スケッチブックや紙の切れ端にペンや鉛筆でさっと描かれた猫の絵を数多く残しており、本作品もその一環と考えられます。 彼の猫の描写は、写実的なスケッチから、シンプルな線描、そしてデフォルメされた油彩画まで多岐にわたりますが、紙と墨を用いた作品は、画家の素早い観察眼と、猫の姿を捉えるための洗練された線による表現を際立たせています。 これは、彼がマティスの影響を受けつつも、自分らしい表現を追求する中でたどり着いた、形と色のバランスを重視するモダニズム絵画への試みの一端を示すものです。

意味

猪熊弦一郎にとって猫は、単なる客観的なモチーフではなく、深い敬愛の念を抱く友のような存在でした。 作品「猫」は、猫という存在が持つデリカシーと強さを同時に感じ取る画家の感受性を反映しています。 彼は、猫の持つ様々な姿を興味の尽きない対象として捉え、その本質を捉えようと試みました。この作品は、愛するものを描くことの中に美を見出すという、猪熊の芸術観を体現していると言えるでしょう。 また、具象から抽象へと画風が移行していく過渡期において、猫の形を通して色と形のバランスを追求する、猪熊の芸術的な探求の軌跡を示唆するものでもあります。

評価や影響

猪熊弦一郎の猫を主題とした作品群は、彼の代表的な仕事の一つとして広く知られています。 「猪熊弦一郎展 猫たち」といった専門の展覧会が繰り返し開催されるなど、その独創的な猫の表現は高く評価されています。 本作品が「没後55年 藤田嗣治と猫展」に展示されていることは、日本の洋画家たちが猫というモチーフをどのように捉え、独自の表現を展開してきたかという文脈の中で、猪熊の作品が重要な位置を占めていることを示しています。 猪熊は、パリ時代に藤田嗣治とアトリエを共にし、同じ船で帰国するなど、藤田と親しい交流がありました。 この展覧会では、藤田から直接的な影響を受けた画家もいれば、そうでない画家もいる中で、彼らが西洋とは異なる日本の猫の絵の歴史を背負っていたという共通点に着目しており、猪熊の「猫」は、その中で独自のモダニズム表現として、鑑賞者に猫への深い愛情と芸術的探求心を伝えています。