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われがすみか 初代竹枝せん

木村荘八

木村荘八の作品「われがすみか 初代竹枝せん」は、1957年から1958年にかけて制作された、紙に墨と彩色で描かれた作品です。本作品は、没後55年を迎えた藤田嗣治に焦点を当てた「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて展示されました。

制作背景と意図

作者である木村荘八(1893-1958)は、東京日本橋に生まれ、岸田劉生らとともに洋画壇で活動しました。彼は多岐にわたる才能を持ち、洋画家としてだけでなく、挿絵画家、随筆家、版画家、舞台美術家としても知られています。特に、東京の風俗や都市の情景、そこに生きる人々を独特の視点で捉え、作品として表現することに長けていました。永井荷風の『濹東綺譚』の挿絵を担当したことでも広く知られ、大衆からの人気を博しました。

「われがすみか 初代竹枝せん」という作品名は、「私の住処」といった意味を持つ「われがすみか」と、「初代竹枝せん」という人物名から構成されています。この作品は、木村荘八が晩年、彼が逝去する1958年(昭和33年)の直前に制作されたものです。 木村は生涯を通じて、変わりゆく東京の都市空間とその中で息づく人々の姿を記録し続けました。本作品は、おそらく当時の東京で活躍した初代竹枝せんという人物の肖像であり、彼女の個性や、彼女を取り巻く「すみか」としての生活空間、あるいは内面の世界を表現しようとしたものと推察されます。木村が東京の下町風俗や人情に深い愛着を抱いていたことを鑑みると、この作品もまた、当時の東京の文化や生活の一端を切り取ったものとして制作されたと考えられます。

技法と素材

この作品は「紙、墨、彩色」という素材を用いています。木村荘八は油絵を主要な表現手段としながらも、多くの優れた挿絵を手がけており、その際には墨と彩色による技法を頻繁に用いました。彼の挿絵作品は、細やかな描写と、対象の持つ雰囲気や感情を的確に捉える表現力で高く評価されています。 本作品においても、紙という支持体に墨で描かれた線描が基盤となり、そこに繊細な彩色が施されることで、奥行きと表情豊かな画面が構成されていると推測されます。洋画の技術を背景に持ちながらも、日本の伝統的な絵画技法である墨と彩色の特性を活かすことで、独自の表現世界を築き上げていました。

作品の意味

「われがすみか 初代竹枝せん」は、特定の人物を主題としながらも、単なる肖像画に留まらない意味を持っています。「われがすみか」という言葉は、個人の生活空間や、そこから派生する内面的な世界、あるいはその人物が属する社会的な位置を示唆します。初代竹枝せんという人物を通して、木村荘八は、近代化が進む中で変遷を遂げる東京の、一側面である人物像や文化を定着させようとしたのかもしれません。 彼の作品はしばしば、失われゆく東京の風情や、移り変わる時代の情景への郷愁と、それを客観的に捉えようとする視点が同居しています。本作品も、そのような木村のまなざしを通して、ある時代の東京に生きた一人の人間の存在感を静かに提示していると考えられます。

評価と影響

木村荘八は、洋画家として岸田劉生や草土社、春陽会といった主要な美術団体で活躍しながら、挿絵や随筆においてもその才能を発揮し、多方面から高い評価を得ました。 特に、東京の風俗を描いた作品群は、西洋の美術様式を取り入れつつも、日本独自の美的感覚と、東京という都市への深い洞察が融合した独自の世界を築き、多くの人々に愛されました。 死後に刊行された『東京繁昌記』は、その絵と文章に対して日本芸術院賞恩賜賞が贈られるなど、彼の作品は東京の歴史と文化を記録する貴重な資料としても高く評価されています。 「われがすみか 初代竹枝せん」のような人物画も、彼の東京を描く一連の作品の中に位置づけられ、特定の個を通して、当時の東京の息吹や時代性を伝える役割を担っています。木村荘八の作品は、現代においても、失われた古き良き東京の姿を伝える貴重な文化遺産として、その評価は揺るぎないものとなっています。