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眠猫

岸田劉生

「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて紹介される作品「眠猫」は、大正時代に活躍した洋画家、岸田劉生が1921年(大正10年)に制作した絵画です。紙に墨と彩色で描かれたこの作品は、H. N. コレクションに所蔵されています。

制作背景と意図

岸田劉生は、1917年(大正6年)から約6年半の間、体調不良のため神奈川県鵠沼にて療養生活を送り、その期間精力的に作品制作に取り組みました。この鵠沼時代は、娘の麗子をモデルとした作品群のほか、日本画の制作も手がけられた時期にあたります。劉生は当初、パリの新しい芸術動向から影響を受けつつも、北方ルネサンス絵画や中国の古典美術、日本の浮世絵といった東洋美術へと関心を深め、独自の芸術表現を追求しました。彼は「深く写実を追求すると不思議なイメーヂに達する。それは『神秘』である」と述べており、単なる写実を超えて、描かれた対象が持つ「存在の神秘性」や「内なる美」を捉えることを目指しました。 猫のモチーフは、劉生にとって得意な画題の一つであり、宋元画風の「眠る猫図」に感銘を受け、自らスケッチした経験があったとされています。また、1920年には書籍の装丁画として体を丸めて眠る猫を描いており、この「眠猫」が制作された1921年頃には、猫という身近な存在の中に深い美を見出す姿勢が確立されていたと考えられます。

技法と素材

本作品は、紙に墨と彩色を用いて描かれています。岸田劉生の日本画は、一般的に用いられる岩絵の具ではなく、墨や、貝殻を原料とする顔料に着色した水干絵具(すいひえのぐ)を主に使用していたことが特徴です。この「眠猫」においても、洋画の技法に留まらず、東洋美術に深く傾倒していた劉生ならではの、墨の濃淡と繊細な彩色によって、猫の柔らかい毛並みや静謐な佇まいが表現されていると推測されます。

作品の持つ意味

「眠猫」に描かれた猫は、その姿を通して岸田劉生が追求した「内なる美」や「卑近美」の思想を体現していると言えます。劉生は、日常的で親しみやすい対象の中に、露骨な表現を避けつつも深い精神性を秘めた東洋的な美を見出そうとしました。静かに眠る猫の姿は、見る者に対し、その愛らしい外見の奥に宿る生命の神秘性や、静かで穏やかな存在感を問いかけているかのようです。宋元画に見られるような精緻で静謐な描写への関心が、この作品における猫の表現にも影響を与えていると考えられます。

評価と影響

岸田劉生は、大正から昭和初期にかけて活躍した画家として、その短い生涯の中で作風を大きく変化させながらも、「孤高の洋画家」と称される独自の芸術世界を築き上げました。彼の作品は「一度見たら忘れられない独特の力を持つ」と評され、同時代の多くの画家に影響を与えました。この「眠猫」も、劉生の日本画に通じる技法と東洋美術への深い理解、そして対象の内面を深く見つめる彼のまなざしが結実した作品の一つであり、彼の芸術における多面性と奥深さを示す貴重な一点として評価されています。