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藤田嗣治

藤田嗣治 画家としての多岐にわたる活動の中で、特に猫を主題とした作品は、その独自の視点と表現で多くの人々を魅了してきました。この「没後55年 藤田嗣治と猫展」で展示される作品「猫」は、1935年(昭和10年)に紙と墨を用いて制作され、H. N. コレクションに所蔵されています。

制作背景と意図

藤田嗣治は生涯にわたり猫を深く愛し、自身の作品にたびたび猫を登場させました。猫は彼にとって単なるモデルではなく、時に作品の主人公として、また時には自身の分身のように描かれました。1930年代は、藤田がそれまでの繊細な線描から、より写実的な表現へと移行していった時期にあたります。この頃、藤田は中南米を巡り日本に帰国しており、色彩はより力強く、描かれる対象には重量感が増す傾向が見られました。パリ画壇において、多くの個性が競い合う中で、猫というモチーフは藤田自身の存在を印象づける上で不可欠な要素となっていったのです。1930年には、20枚のエッチング版画を収録した『猫の本』をニューヨークで出版し、その人気は確立されていました。本作品は、そうした猫への深い愛情と、画家としての探求が融合した時期に生み出されたものと言えるでしょう。

技法と素材

作品「猫」は、紙に墨というシンプルな素材で描かれています。藤田は、極めて細い線で輪郭を描く独自の技法で知られ、日本画で使われる面相筆に細い針を仕込んでいたとも言われています。この繊細な線描は、猫のしなやかな体の曲線や柔らかな毛並みを表現するのに適していました。彼は、猫の姿を鋭い観察眼と正確なデッサンによって捉え、生き生きとした動きと平面的な画面構成を両立させています。これは、日本の伝統的な浮世絵の技法と西洋絵画の表現を意欲的に融合させようとした藤田ならではのアプローチです。特に「紙、墨」という素材の選択は、彼の日本画に対する深い理解と、その伝統を西洋絵画の中に昇華させようとする姿勢を明確に示しています。

作品の持つ意味

藤田嗣治にとって猫は、単なる愛玩動物以上の意味を持っていました。彼は猫の持つ野性味と優雅さ、そして時に愛を与え、時に突き放すミステリアスな性質に魅了されていたのかもしれません。多くの作品で猫を登場させることで、藤田は猫を自身の「サイン」のような存在にまで高めました。本作品においても、猫のポーズや視線、毛並みの表現からは、藤田が猫の持つ瞬間的な感情や存在感を深く理解し、それらを画面上に定着させようとした意図が読み取れます。彼の描く猫たちは、鑑賞者に幸福な雰囲気や、時には画家の内面的な世界をも感じさせる力を持っています。

評価と影響

藤田嗣治の描く猫は、彼の「乳白色の肌」の裸婦像と並び、その代表的なモチーフとして不動の人気を誇っています。彼は、西洋絵画において脇役的存在であった猫をあえて主役に据えることで、日本の洋画における猫の絵の歴史を切り拓き、その後の多くの洋画家たちに影響を与えました。その評価は国際的にも高く、20世紀初頭の西洋において最も重要な日本人芸術家の一人として位置づけられています。彼の猫の作品は、その芸術的価値だけでなく、市場においても高い評価を受けており、オークションでは高額で落札されることも少なくありません。本作品「猫」もまた、藤田嗣治が猫というモチーフを通じて、東西の美意識を融合させた独自の芸術世界を確立したことを示す貴重な一点と言えるでしょう。