藤田嗣治
没後55年 藤田嗣治と猫展に出品された作品「臥猫」は、洋画家・藤田嗣治が1948年(昭和23年)に制作した、紙に墨で描かれた一点です。下関市立美術館に所蔵されており、藤田が愛し続けたモチーフである猫を通じて、画家の心情や技法の奥行きを感じさせる作品となっています。
藤田嗣治は生涯にわたり猫を深く愛し、「猫の画家」と称されるほど多くの猫の作品を残しました。猫は藤田にとって単なる愛玩動物ではなく、しばしば自身の分身や伴侶、あるいは作品における重要な要素として描かれました。自画像や女性像の傍らに猫を配するだけでなく、「猫十態」のようなシリーズ作品も制作しています。
「臥猫」が制作された1948年は、藤田嗣治にとって激動の時代である第二次世界大戦終結後、日本を永久に離れる直前の時期にあたります。彼は戦争画の制作に関わったことで日本画壇から批判を受け、翌1949年にはフランスへ渡り、その後二度と日本の土を踏むことはありませんでした。 このような複雑な状況下で描かれた猫の絵は、画家が愛着を抱く安らぎの対象として、あるいは来るべき生活への静かな期待や、過去への郷愁、あるいは内省的な感情の表れとして捉えることができます。
この作品は「紙、墨」という素材で制作されており、藤田が油彩画で確立した独自の「乳白色の肌」の技法とは異なる、日本画の伝統に通じる表現を用いています。藤田は、パリで西洋画を学ぶ一方で、日本の浮世絵や日本画から着想を得て、繊細な線描を取り入れました。特に、日本画で使われる面相筆による、肥痩のない均一で細い線は、彼の作品の大きな特徴の一つです。
油彩画では、炭酸カルシウムを油絵具のシルバーホワイトと混ぜ合わせ、ベビーパウダーで油分を取り除くという独自の配合と工程で、陶器のような光沢と温かみを持つ「乳白色の肌」を表現しました。 「臥猫」においては、墨という単色の素材でありながら、この線描の技術と、墨の濃淡やにじみといった表現を駆使することで、猫のしなやかな体の曲線、毛並みの柔らかさ、そして深い存在感を見事に描き出しています。
藤田の描く猫は、そのミステリアスな性質から、画家自身の独立した精神性や、複雑な内面を象徴すると解釈されることがあります。 「臥猫」における、ゆったりと横たわる猫の姿は、一見すると穏やかですが、その眼差しや姿勢からは、単なる可愛らしさだけでなく、どこか孤高で、観察者のような、あるいは深い思索にふけるような雰囲気も感じられます。戦後の混乱期に描かれたこの作品は、藤田が日本を去る直前の心境、すなわち内面の平穏を求める気持ちや、人生の転換期における静かな決意といった意味合いを帯びている可能性も考えられます。
藤田嗣治の猫の絵は、彼の画業の中でも特に人気が高く、多くの人々に愛され続けています。彼は、西洋絵画においては脇役にとどまりがちであった猫というモチーフを、独自の視点と技法によって主役へと昇華させました。 その影響は大きく、藤田以降、日本の洋画家たちが猫を主題にした個性的な作品を数多く生み出すきっかけとなりました。
「臥猫」のような作品を通じて、藤田は東洋と西洋の美意識を融合させた独自のスタイルを確立し、国際的な評価を得ました。 彼の猫の絵は、見る者に安らぎと同時に、どこか神秘的な感情を抱かせ、藤田嗣治という画家の多面的な魅力を今に伝えています。