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猫を抱く娘

藤田嗣治

没後55年 藤田嗣治と猫展:作品紹介「猫を抱く娘」

本稿では、現在開催中の「没後55年 藤田嗣治と猫展」に展示される藤田嗣治の作品「猫を抱く娘」について、その背景、技法、意味、そして後世への影響を詳細に解説します。

作品の背景と意図

「猫を抱く娘」は、1934年(昭和9年)に制作された藤田嗣治による作品です。藤田嗣治は、20世紀初頭のパリで「エコール・ド・パリ」を代表する画家の一人として活躍し、西洋画の伝統に日本画の技法を取り入れた独自の様式を確立しました。

猫は藤田の作品において、乳白色の裸婦像と並び、彼の代名詞ともいえる重要なモチーフです。彼は猫を単なる愛玩動物としてではなく、友人、あるいは家族として深く愛し、常に触れ合い、その気まぐれで野性的な一面や甘える仕草、暖かさまでをも、生き生きと観察して描きました。猫は、自画像にも繰り返し登場するなど、藤田自身のアイデンティティやサインのような役割をも果たし、多くの個性が競い合うパリ画壇において、藤田自身を印象付ける上で欠かせない存在でした。

1934年という制作年は、藤田が中南米を巡る旅から日本に帰国し、二科会会員として精力的に活動していた時期にあたります。この頃の作品には、彼の多様な経験と、東西の美術を融合させようとする探求心が色濃く反映されています。

用いられた技法と素材

「猫を抱く娘」は、紙に墨と彩色を用いて描かれています。これは、彼の代表的な油彩画とは異なる素材へのアプローチを示しており、日本画材の特性を活かした表現への関心が見て取れます。

藤田は、西洋画の油彩において、日本画の繊細な線描や墨の表現を取り入れる独自の技法を確立しました。特に有名なのが、陶器のような透明感と温かみを併せ持つ「乳白色の肌」と呼ばれる肌の表現です。この技法は、下地に硫酸バリウムを用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を混ぜた絵具を塗布し、さらにベビーパウダーなどに含まれるタルクを表面に施すことで、半光沢で滑らかな質感を生み出しました。このタルクの働きにより、油性下地の上にも水性の墨が定着しやすくなり、日本画で顔の輪郭や細部を描く際に用いられる面相筆での精緻な線描が可能となりました。彼は、見たものと触れたものが同じであるような「やわらかい、押せばへこむような皮膚」の表現を目指していました。

本作においても、紙と墨、彩色の組み合わせによって、油彩とはまた異なる素材感と、藤田ならではの繊細な筆致が活かされていると推測されます。

作品に込められた意味

少女が猫を抱く構図は、藤田の作品に繰り返し登場する普遍的な主題の一つです。この組み合わせは、無垢な愛情や生命の尊さ、そして安らぎといったテーマを象徴していると考えられます。作品に描かれた猫は、気まぐれさや甘え、そして温もりといった本質的な生命感を伴って表現されており、藤田が実際に猫と深く触れ合っていたからこそ描ける、生きた猫の姿がそこにはあります。

少女の穏やかな表情と、猫の個性を捉えた描写は、見る者の心に温かい親近感や共感を呼び起こします。1959年にカトリックに改宗して以降、藤田は聖母子像のような宗教画も多く描きましたが、少女と猫の組み合わせには、初期から晩年まで一貫して彼の深い人間愛と生命への眼差しが込められていたと言えるでしょう。

評価と影響

藤田嗣治の猫の絵は、「乳白色の裸婦」と並び、彼の作品の中でも特に人気が高く、今日においてもその価値は不動のものとなっています。彼の作品は、日本の近代洋画において、これまで西洋絵画では脇役的な存在であった猫を、主要なモチーフとして昇華させる大きな役割を果たしました。

藤田から直接的な影響を受けた画家もいれば、そうでない画家もいますが、彼の猫の表現は、日本の洋画家たちが西洋とは異なる日本独自の猫の絵画史を模索するきっかけを与えました。彼の作品は、現在も国内外の美術館に所蔵され、多くの回顧展が開催されるなど、高い評価を受け続け、世界中の人々に愛され続けています。