藤田嗣治
このたび開催される「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて展示される作品「猫」は、1930年代に紙と墨を用いて制作された、藤田嗣治が愛してやまなかった猫たちを描いた一点です。個人蔵であるこの作品は、藤田の芸術における猫というモチーフの重要性を改めて示しています。
藤田嗣治は1913年にフランスへ渡り、1920年代には独自の「乳白色の肌」の裸婦像でパリ画壇の寵児となりました。その一方で、彼は1920年頃から猫を飼い始め、その愛らしい姿や神秘的な魅力に深く魅せられていきました。猫は藤田にとって単なるペットではなく、友人であり家族であり、時には自身の分身とも見なされていました。
1930年代は、藤田が世界各地を旅し、画題を広げていった時期にあたります。この頃、彼の作風は繊細な線描から、より写実的な表現へと移行する傾向が見られました。猫は彼の作品において、裸婦像と並ぶ主要なモチーフの一つとして確立され、数多くの作品に登場しました。特に1930年には、20枚のエッチング版画を収録した『猫の本』が出版され、高い人気を博しています。西洋絵画において脇役とされることが多かった猫を、藤田は独自の表現で主役へと昇華させ、当時のパリ画壇で自身の個性を際立たせる重要な要素としました。
作品「猫」は、紙と墨という日本画で伝統的に用いられる素材で描かれています。藤田は西洋画の技法に日本画の感性を融合させることで、独自の画風を確立しました。彼の特徴的な細く流れるような線描は、面相筆と墨によって生み出されました。
彼は猫の習性や動きを熟知しており、緻密な観察眼と正確なデッサン力をもって、猫の毛並みの柔らかさ、しなやかな体の曲線、そして茶目っ気のある仕草に至るまでを巧みに捉えています。墨の濃淡やかすれを駆使することで、猫の毛皮の質感や立体感を表現し、生き生きとした生命感を吹き込んでいます。この時期に制作された銅版画集『猫十態』では、最高質のシナ紙を西洋の紙に貼り合わせる「シナ・アップリケ」という技法を用いるなど、紙と墨の可能性を追求しました。本作品においても、彼が培った紙と墨による繊細かつ力強い表現力が存分に発揮されています。
藤田の描く猫は、単なる写実的な描写に留まらず、多様な意味合いを内包しています。彼の作品に登場する猫は、気まぐれさ、時には野性的な一面、そして甘えん坊な姿といった、猫が持つ多面的な性格を表現しています。また、人に決して馴れすぎない独立心の強さや、時に牙を剥く猛々しい側面は、藤田自身の性格や、彼が作品を通じて表現しようとした女性像とも重ね合わせられていたと考えられます。
彼は猫に旧約聖書やギリシア神話の女王たちの名前を付けていたこともあり、その姿には気品さえ漂わせています。猫は藤田にとって、異国の地で孤立感を抱えながらも、独自の芸術を追求し続けた自身の魂の象徴でもあったのかもしれません。
藤田嗣治の猫の作品は、彼の「乳白色の裸婦」と共に、国際的な評価を獲得し、現在もその人気は不動のものです。特に1930年代に発表された『猫の本』は、彼の猫画家としての地位を確固たるものにし、希少本として美術市場でも高く評価されています。
藤田は、西洋絵画の伝統において脇役であった猫というモチーフを、日本の洋画における主要なテーマへと押し上げたパイオニアであり、その後の日本の洋画家たちにも大きな影響を与えました。彼の猫たちは、芸術的な価値のみならず、その作品全体の価格高騰にも寄与しており、現在も高い資産価値が認められています。本作品もまた、藤田嗣治の猫への深い愛情と、卓越した技術が凝縮された、彼の画業を語る上で欠かせない貴重な一点と言えるでしょう。