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アタラヘシオネ(『猫の本』より)

藤田嗣治

藤田嗣治が1930年(昭和5年)に制作した「アタラヘシオネ(『猫の本』より)」は、現在、軽井沢安東美術館に所蔵されています。この作品は、藤田嗣治の代表作の一つである豪華限定版画集『猫の本(A Book of Cats)』に収められた一点で、彼が猫を描き続けた画業の中でも特に重要な位置を占めています。

この作品が制作された背景には、藤田嗣治の猫に対する深い愛情と鋭い観察眼がありました。彼は自身で猫を飼い、共に生活し、日々その仕草や表情を観察していました。藤田は「画室にいる時モデルがないと猫を描くのである。サイン代わりに猫を描くこともある」と語っており、猫は彼にとって創造の源であり、分身ともいえる存在でした。時には困窮した生活の中で温もりを分かち合った猫への恩返しという意味もあったと考えられています。西洋絵画において脇役とされることが多かった猫を、藤田はあえて作品の主役に据えることで、日本の洋画における猫の表現に新たな道を拓きました。

作品に使用されている技法は「コロタイプ」です。コロタイプは、ガラス版を用いた非常に繊細で手間のかかる印刷技法であり、職人の高度な技術を要します。 この作品は、フランスから輸入された手漉きのアルシュ紙に刷られており、当時の技術と素材へのこだわりが見て取れます。

「アタラヘシオネ」という作品名は、『猫の本』に登場する21匹の猫のうち、「アタラ」と「ヘシオン」という名が与えられた二匹の猫を描いたものです。 藤田は、この作品において、猫の柔らかな毛並み一本一本まで緻密に描き出し、その体温までもが伝わってくるかのような写実的な表現を実現しています。彼の作品の特徴である、乳白色の絵肌に日本の水墨画を思わせる細くしなやかな描線は、猫の愛らしい姿を一層際立たせています。

『猫の本』は1930年にニューヨークのコビチ・フリード社から限定500部で出版され、奥付には限定番号と藤田嗣治の直筆サインが鉛筆で記されています。 この版画集は高い評価を受け、「猫の画家」としての藤田の地位とイメージを確立する上で決定的な作品となりました。 その影響は大きく、藤田嗣治以降、日本の多くの洋画家たちが猫を主題に描き、日本の洋画史における猫の絵の系譜を形成するきっかけの一つとなったとも言われています。