藤田嗣治
没後55年 藤田嗣治と猫展に出品されている藤田嗣治の作品「クリュソテミス(『猫の本』より)」についてご紹介します。
この作品「クリュソテミス」は、画家・藤田嗣治が1930年(昭和5年)にアメリカ・ニューヨークのコビチ・フリード社から出版した豪華挿画本『猫の本』(A Book of Cats)に収められた21点の猫のドローイングの一つです。詩人マイケル・ジョゼフがそれぞれの猫に名前を付け、散文形式の詩を添えて一冊にまとめられたものです。限定500部で制作され、本の奥付には限定番号と藤田の鉛筆サインが記されています。
藤田嗣治は生涯にわたって猫を描き続けた画家として知られています。彼自身も猫を飼い、日々の生活の中で猫を深く観察し、その仕草や表情、毛並みの一本一本に至るまで緻密に描き出しました。時にはモデルがいない時に猫を描いたり、自画像の中に猫をサインのように描き込むこともありました。西洋絵画において動物、特に猫は主要なモチーフではなかった中で、藤田は「乳白色の裸婦」の隣に猫を描くことから始め、猫を洋画の魅力的なテーマへと押し上げました。この『猫の本』の制作は、藤田の猫に対する深い愛情、鋭い観察眼、そして卓越したデッサン力を示しており、アメリカにおける「猫の画家」としての藤田の評価を確立する上で重要な役割を果たしました。
「クリュソテミス」は、紙に「コロタイプ」という技法で制作されています。使用された紙は、当時貴重であったフランスから輸入された手漉きのアルシュ紙です。
コロタイプは、1855年にフランスで原理が発見され、1868年にドイツで実用化された、世界最古の写真印刷技法の一つです。この技法は、ガラス板にゼラチンと感光液を塗布し、それを写真ネガと密着させて紫外線で露光することで製版されます。光の透過量に応じてゼラチンが硬化し、その後、版を湿らせると、硬化していない部分は水を吸収して膨張し、硬化した部分は水を弾きます。このゼラチンの膨潤度合いによる凹凸がインクの付着量を決定し、油性のインクが版に転写されることで印刷が行われます。
コロタイプ印刷の最大の特徴は、オフセット印刷のような網点(ドット)を使わずに、連続した階調表現が可能な点です。これにより、フィルムが持つ豊かな諧調をそのまま再現することができ、非常に精緻で滑らかな濃淡の画像を再現します。画像の保存性が高く、一度版を作れば多数のプリントが制作できる利点がある一方で、印刷速度が遅く、耐刷力が低いこと、多色刷りが難しいといった課題もあります。現在では特殊な目的、特に文化財の複製などに用いられる技術となっています。
藤田が描く猫たちは、単なる動物の描写を超え、彼自身の深い愛情や観察眼が投影されています。『猫の本』に登場する21匹の猫たちは、それぞれにユニークな名前が与えられ、個性的な表情やポーズを見せています。これらの猫たちは、西洋絵画においては脇役的存在だった猫を、作品の中心に据えることで、日本の洋画における猫の表現の可能性を広げました。藤田の猫たちは、優雅でモダンな姿から、時には混乱した時代を象徴するような荒々しい姿まで、多様な側面を描き出し、見る者に様々な感情を呼び起こします。
『猫の本』は、藤田嗣治の作品の中でも特に人気が高く、藤田ファンのみならず、猫を愛する多くの人々に親しまれています。この作品集は、藤田の猫に対する並々ならぬ情熱と技術を世に知らしめ、彼の名声を確固たるものにしました。
藤田嗣治の猫の絵は、日本の洋画史においても大きな影響を与えました。彼が確立した猫を主要なモチーフとする芸術表現は、その後の日本の洋画家たちに新たなインスピレーションを与え、多様な猫の絵が生み出されるきっかけとなりました。藤田は西洋と日本の絵画伝統の間に立ち、猫というモチーフを通じて独自の道を切り開いた画家として、高く評価されています。