藤田嗣治
本記事では、「没後55年 藤田嗣治と猫展」で紹介される、藤田嗣治の代表作の一つ《五人の裸婦》について、その背景、技法、意味、そして評価と影響を詳細に解説します。東京国立近代美術館が所蔵するこの作品は、1923年(大正12年)に油彩・キャンバスで制作されました。
1913年に単身パリへ渡った藤田嗣治は、当時の芸術の最先端であったエコール・ド・パリの中心地モンパルナスで、パブロ・ピカソら多くの芸術家たちと交流し、自身の絵画表現を模索しました。その中で藤田は、西洋油彩画に日本画の技法を取り入れた独自のスタイルを確立していきます。特に1920年代に入ると、裸婦像に用いた「乳白色の下地」の技法でパリ画壇から絶賛され、一躍その名を馳せることとなります。1921年に初めて発表した裸婦像が「素晴らしき乳白色の下地」と評され、藤田はパリでの名声を確立しました。
《五人の裸婦》は、1923年のサロン・ドートンヌ第16回展に出品された大作であり、藤田が初めて裸婦の群像表現に挑んだ意欲的な作品です。 本作の構図は、パブロ・ピカソが1907年に制作した《アヴィニョンの娘たち》との類似が指摘されており、ピカソからの影響も感じられます。 横にほぼ一列に並んだ五人の裸婦は、中央に立つ女性を「視覚」とし、向かって左から触覚、聴覚、味覚、嗅覚の「五感」を表現しているとも解釈されています。これは、視覚芸術である絵画の優位性を示す伝統的な手法の一つであると考えられています。
この作品は、キャンバスに油彩で描かれています。 《五人の裸婦》で特に注目されるのは、藤田の代名詞ともいえる「乳白色の肌」の表現です。藤田は、キャンバス全体にシッカロール(ベビーパウダー)などを混ぜた独自の絵具を下地として塗ることで、まるで陶器のような、透き通るような女性の肌の質感を表現しました。 この技法の秘密は長らく明かされませんでしたが、近年の科学調査によってタルク(滑石粉)の使用が明らかになっています。 この乳白色の肌の表現は、浮世絵師である鈴木春信や喜多川歌麿の肌の描写から着想を得たものとされています。
また、裸婦の輪郭線には、日本画で眉や鼻の輪郭といった細部を描く際に用いられる面相筆と墨が使用されています。この細く繊細な描線が、乳白色の肌を際立たせています。 作品全体の構成は、浮世絵を思わせる平面的な人物表現が特徴で、西洋画特有の空間の奥行きやモチーフの立体感よりも、装飾的な美しさが追求されています。
裸婦たちの背後のベッドの天蓋や足元に敷かれた布には、フランス更紗である「ジュイ布」を思わせる細密な模様が描かれています。この緻密な描写が、滑らかな乳白色の肌との対比を生み出し、作品に深みを与えています。藤田はこの「ジュイ布」を描くことで、失われつつあった職人的な手仕事への賛美も表現していたと言われています。 全体的にモノトーンに近い色彩でまとめられており、唇や爪に施されたわずかな薄桃色が、効果的なアクセントとなっています。
《五人の裸婦》は、東洋と西洋の芸術的要素が融合した作品として評価されています。裸婦の配置や余白の取り方には日本的な構成美が見られ、西洋の構図原理と東洋の美学が絶妙に調和しています。 また、前述の「五感」の表現は、絵画という視覚芸術が持つ本質的な力と、人間の感覚世界への深い洞察を示唆していると考えられます。
この作品は1923年のサロン・ドートンヌで発表され、藤田嗣治がパリの画壇において不動の地位を築く上で重要な役割を果たしました。同年にはサロン・デ・チュイルリーの会員にも推挙されています。 彼の「乳白色の肌」は、当時のパリの芸術家たちに大きな衝撃を与え、「サロンの寵児」と称されるほどの人気を博しました。藤田は、日本人画家として、当時のフランス画壇において批評と美術市場双方から評価された第一人者と位置づけられています。
しかしながら、同時期の日本では、藤田の画風は「日本画を油絵で描いたようだ」と評され、必ずしも正当な評価を得られていなかったという側面もあります。 それでもなお、《五人の裸婦》は、藤田嗣治が自身の独自の表現を確立し、西洋美術の伝統の中に新たな風を吹き込んだ傑作として、現代においてもその輝きを放ち続けています。