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黒猫

木村武山

木村武山《黒猫》:大正期の日本画が示す、猫への深いまなざし

「没後55年 藤田嗣治と猫展」にて展示される木村武山作《黒猫》は、大正時代に制作された日本画であり、絹本彩色という伝統的な技法で描かれています。本作品は、同展が「フジタからはじまる猫の絵画史 藤田嗣治と洋画家たちの猫」と称されるように、藤田嗣治が洋画における猫表現を確立する以前の、日本画における猫の描写を探る上で重要な位置を占める一点です。

制作背景とアーティスト、木村武山

作者である木村武山(きむら ぶざん、1876-1942)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家です。茨城県笠間市に生まれ、川端玉章に師事した後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。岡倉天心、横山大観、下村観山、菱田春草らと共に日本美術院の中心的な画家として、日本画の近代化に尽力しました。特に色彩感覚に優れ、「日本美術院きってのカラリスト」と評されています。

武山の画業は多岐にわたり、初期には歴史画を多く手掛けましたが、大正初期からは花鳥画に注力し、晩年には仏画の大家として「仏画の武山」と称されるほど多くの傑作を残しました。 大正時代の作品には、琳派の技法を取り入れた壮麗な作風が見られることも特徴です。

《黒猫》が制作されたとされる1918年(大正7年頃)は、武山が花鳥画に力を入れていた時期にあたります。 彼の写実的な描写力と優れた色彩感覚は、猫という身近な題材にも向けられ、生命感あふれる表現に生かされています。

技法と素材

本作品は、日本画の伝統的な素材と技法である「絹、彩色」によって描かれています。繊細な絹の画面に、岩絵具や水干絵具などの顔料を用いて彩色することで、深みと透明感のある色彩表現が可能です。武山が持つ優れた色彩感覚は、この絹本彩色という技法を通じて、黒猫の毛並みの質感や光沢、そしてその存在感を豊かに表現することに貢献していると考えられます。

作品が持つ意味と評価

《黒猫》が単体で持つ具体的な制作意図や思想に関する記録は少ないものの、木村武山の花鳥画期における動物画として、その時代背景と日本画の伝統の中で猫を描くことの意味を読み解くことができます。日本の美術において猫は古くから愛されてきたモチーフであり、浮世絵や日本画においても様々な形で描かれてきました。 《黒猫》は、洋画が日本に導入され始めた頃、まだ猫が絵画の主役としてほとんど扱われていなかった時代に、日本画の画家がその豊かな感受性で猫の姿を捉えた貴重な一例と言えます。

今回の展示会「没後55年 藤田嗣治と猫展」では、藤田嗣治が1920年代のパリで「乳白色の裸婦」と共に猫を描き、洋画における猫のモチーフを定着させたことを出発点としていますが、本作品はそれ以前の日本画における「猫の絵画史の先行例」として紹介されることで、日本の美術における猫表現の多様性と奥行きを示す役割を担っています。

木村武山は、晩年に脳出血で右手の自由を失った後も、左手で絵筆を執り続けた「左武山」の異名を持つほどの情熱的な画家でした。 その画業の全体像は多様であるがゆえに、時に正当な評価が難しいとされた面もありますが、日本画の革新期において重要な役割を果たした巨匠の一人です。 《黒猫》は、彼の洗練された描写力と色彩感覚が凝縮された、大正日本画における猫表現の優れた成果として評価されるべき作品です。