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恐れ Dread

モーリス・ドニ Maurice Denis

モーリス・ドニ《恐れ》:ナビ派の探求が生んだ象徴的な恐怖

「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」に出品されているモーリス・ドニの油彩画《恐れ》は、1891年に制作されました。この作品は、ナビ派の中心人物であったドニの初期の重要な作品であり、彼の芸術思想と技法が色濃く反映されています。

制作背景と意図

《恐れ》は、ベルギーの象徴主義詩人モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck, 1862-1949)による戯曲『闖入者(L'Intruse)』のための挿絵として構想されました。この戯曲は、母親が出産した後、死が忍び寄る状況に直面した少女たちの恐怖を描いています。ドニは、この劇が持つ神秘的で不穏な雰囲気を視覚的に表現しようとしました。

元々この作品はもっと大きなサイズでしたが、売れ行きが悪かったため、ドニは現在見られる少女たちの部分を切り取ったとされています。この背景には、当時の絵画市場の状況と、ドニが自身の芸術的探求と商業的成功の間で模索していた姿勢がうかがえます。

技法と素材

作品は1891年に油彩とカンヴァスで描かれました。ドニはナビ派の一員として、対象の単純化、明確な輪郭線、そして平坦な色面を特徴とするクロワゾニスムの技法を採用しました。この技法は、日本の版画やポール・ゴーガンが確立した平面的な画風に影響を受けています。

《恐れ》では、青白い顔と細長く伸びた手を持つ少女たちが、背景の鮮やかな花柄のパターンと対照的に描かれています。陰影を抑え、奥行きのない平面的な表現は、印象派の写実主義から離れ、感情や思考といった内面的なものを表現しようとするナビ派の姿勢を明確に示しています。

作品が持つ意味

この作品は、メーテルリンクの戯曲の主題である「死の侵入」とそれに伴う「恐れ」という普遍的なテーマを象徴的に表現しています。少女たちの表情や手の仕草からは、言葉にならない不安や神秘的な恐怖が感じられます。ドニは、現実をそのまま描写するのではなく、色彩や構図によって内面的な世界、すなわち魂の感情を伝えようとしました。

ドニ自身は敬虔なカトリック信者であり、彼の作品には宗教的な主題や精神性がしばしば見られます。ナビ派はヘブライ語で「預言者」を意味し、彼らが目指したのは、新しい絵画表現を通じて、目に見えない神秘的なイメージや精神的な真理を追求することでした。この作品もまた、表面的な描写を超えた、象徴的な意味合いを強く持っています。

評価と影響

モーリス・ドニは、ナビ派の中でも特に理論家として知られ、1890年に発表した「新伝統主義の定義」の中で、「絵画とは、戦闘の馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的には、ある秩序のもとに集められた色彩で覆われた平坦な表面である」という有名な言葉を残しました。この思想は、後のキュビスムやフォーヴィスム、抽象絵画にも影響を与える、近代絵画の基礎となるものでした。

《恐れ》のような初期の作品において、ドニはゴーガンの影響を受けつつも、簡素化された形態と装飾的な色面によって、感情や思想を表現するナビ派のスタイルを実践しました。彼の作品は、印象派から近代美術への移行期において、具象的な主題を保ちつつも、形式と色彩の革新を追求した点で高く評価されています。ドニの芸術は、その後の世代のアーティストにも大きな影響を与え、美術史において重要な足跡を残しました。