テオフィル・アレクサンドル・スタンラン Théophile Alexandre Steinlen
ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢 出展作品より
本作品は、1896年にテオフィル・アレクサンドル・スタンランによって制作された「シャ・ノワール巡業公演のためのポスター」です。多色刷りリトグラフによって紙に印刷されたこのポスターは、ベル・エポック期のパリを象徴する作品として、今日でも広く知られています。
作品の主題となっている「ル・シャ・ノワール(Le Chat Noir)」は、「黒猫」を意味し、1881年にロドルフ・サリがパリのモンマルトルに開設したキャバレーです。詩の朗読、音楽演奏、そして影絵芝居などの多彩な演目を提供する、世界初の近代的なキャバレーとして知られ、当時の芸術家や詩人、音楽家たちが集う文化発信地となりました。1882年から1895年には同名の週刊誌も発行され、文学作品や風刺画が掲載されていました。
作者であるテオフィル・アレクサンドル・スタンランはスイス生まれの画家で、1881年にパリのモンマルトルへ移住後、すぐにル・シャ・ノワールを取り巻く芸術家コミュニティの一員となりました。彼は1883年からキャバレーの機関誌『シャ・ノワール』に寄稿を始め、ル・シャ・ノワールの装飾やポスターを数多く手掛けるようになります。
このポスターは、1896年にル・シャ・ノワールの一座がパリを離れて地方巡業を行うことを告知するために制作されました。 スタンランは社会主義者であり、労働者階級の生活や闘争を描くことで社会活動を行う一面も持っていました。彼は猫をこよなく愛し、作品に猫を頻繁に登場させ、自由や権力への抵抗といった意味合いを込めることがありました。
本作は、1896年に制作された多色刷りリトグラフであり、紙に印刷されています。リトグラフ(石版画)は、当時のポスター制作において主要な技法であり、鮮やかな色彩と大量印刷を可能にすることで、広告媒体としてのポスターの普及に貢献しました。スタンランは、1885年から1926年の間に37点ものカラーリトグラフポスターを制作しています。
ポスター中央には、象徴的な黒猫が力強く描かれています。この黒猫は、キャバレー「ル・シャ・ノワール」の代名詞であり、モンマルトルのボヘミアンな自由な精神を体現する存在でもありました。 猫の頭部には後光(オーラ)が描かれており、これによって猫は単なる動物ではなく、聖なる、あるいはビザンチン美術のイコンのような尊い存在へと昇華されています。
後光の中には「MONT-JOYE MONTMARTRE(モンジョワ・モンマルトル)」という文字が記されています。これは中世のフランスの鬨の声「モンジョワ・サンドニ」をもじったもので、パリの守護聖人にちなむと同時に、モンマルトルの反骨精神を表現しています。 ポスターには他に「PROCHAINEMENT(近日上演)」「TOURNÉE(巡業)」「CHAT NOIR(シャ・ノワール)」「RODOLPHE SALIS(ロドルフ・サリ)」といった文字が配置され、巡業公演の告知という本来の目的を伝えています。
作品のスタイルは、アール・ヌーヴォーの特徴である流れるような曲線と平面的な色彩構成が見られ、当時のトゥールーズ=ロートレックなど他のポスター画家とも共通する流行を取り入れています。
スタンランの「シャ・ノワール巡業公演のためのポスター」は、彼の代表作の一つであり、ベル・エポック期およびモンマルトルの象徴的なイメージとして高い評価を受けています。 このポスターに描かれた黒猫のイメージは、現在でもポストカードやマグカップ、Tシャツなど、様々な商品に複製され、世界中で親しまれています。
ル・シャ・ノワールが近代的なキャバレー文化に大きな影響を与えたのと同様に、このポスターもまた、ポスターデザインの分野で大きな足跡を残しました。スタンランは、アルフォンス・ミュシャやトゥールーズ=ロートレックと並び、フランスのポスターデザインの第一人者と称されています。 彼の作品は、美術と大衆文化の橋渡しをする役割を担い、多様なポスターを通じて庶民の感情や生活を描き出す「記録者」としての側面も持っていました。