ピエール・ボナール Pierre Bonnard
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」にて展示されるピエール・ボナールの作品「傘を持つ女性」は、19世紀末のフランス美術における重要な潮流と、画家の独自の探求を示す一点です。1895年に制作されたこの作品は、多色刷りリトグラフという技法で紙に表現されており、当時のボナールの芸術的背景と意図を深く物語っています。
制作背景と意図 ピエール・ボナール(1867-1947)は、19世紀末に結成された芸術家集団「ナビ派」の主要メンバーとして知られています。ナビ派は、ポール・ゴーギャンの色彩理論と日本美術、特に浮世絵の影響を強く受け、写実主義に反発し、装飾的で新たな造形表現を模索しました。ボナールは特に日本美術に傾倒し、「ナビ・ジャポナール」(日本かぶれのナビ)という異名で呼ばれるほどでした。彼の作品には、浮世絵に見られるような平坦で装飾的な画面構成、大胆な構図、そして伝統的な遠近法にとらわれない表現がしばしば見られます。
「傘を持つ女性」が制作された1895年は、ボナールがナビ派として活発に活動し、版画制作に精力的に取り組んでいた時期にあたります。彼はまた、日常の身近な情景を好んで描く「アンティミスム(親密派)」の画家としても知られており、室内情景や人物画、風景画など、身の回りの題材から日常の幸福感や戸惑いを捉えようとしました。この「傘を持つ女性」は、1894年から1898年にかけて描かれた「傘を持つ女」の連作の一部であり、画家がこのモチーフに継続的な関心を抱いていたことを示唆しています。
技法と素材 本作は「多色刷りリトグラフ、紙」という技法と素材を用いています。リトグラフは19世紀末に多色刷りが可能になり、ボナールやヴュイヤール、ロートレックといった画家たちがこの新しい表現媒体を積極的に活用しました。リトグラフでは、石や金属の版に直接描画することが可能であり、複数の版を用いることで複雑な色彩表現を実現しました。ボナールは、その柔軟な表現力を生かし、ポスターや挿絵など、絵画以外の分野でも優れた作品を多数残しています。この技法により、筆致の柔らかさや色彩のニュアンスを繊細に紙の上に再現することが可能となりました。
作品の意味 「傘を持つ女性」という主題は、ボナールが日常のさりげない一瞬を切り取ろうとした彼の芸術的探求を反映しています。画面の構成や色彩の選択において、日本美術の影響を受けた平面的で装飾的な特徴がうかがえるかもしれません。また、雨や日差しを避けるための傘をさす人物の姿は、特定の物語性を持つというよりは、都市の情景や個人の内面的な雰囲気を表現することに重きを置いていると考えられます。ボナールは「視神経の冒険の転写」という言葉を残しており、「見る」という知覚のプロセスと絵画の関係を解明しようと試みました。この作品も、見る人の記憶や感情に訴えかけるような、光と色彩に満ちた感覚的な世界を提示していると言えるでしょう。
評価と影響 ピエール・ボナールは、ポスト印象派とモダンアートをつなぐ重要な画家として評価されています。彼が属したナビ派は、ルネサンス以降の自然主義的な絵画からの脱却を目指し、後の20世紀の前衛美術の先駆けとなりました。特に彼の版画やポスター作品は、その装飾性と独創性によって高く評価されました。1889年には商業ポスターのデザインコンペで優勝し、これが画家としてのキャリアを本格的に歩むきっかけとなっています。
「傘を持つ女性」は、ファン・ゴッホ美術館に所蔵されており、今回の「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」で展示されることで、ゴッホの作品とは異なる、しかし同時代にフランスで展開された芸術的表現の一端を示す貴重な機会を提供しています。ボナールの作品は、その柔らかな色彩と独自の表現様式を通じて、見る者に静かで親密な感情を呼び起こし、後の世代の画家に多大な影響を与えました。