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サン=ラザールにて At Saint-Lazare

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 《サン=ラザールにて》

本作品は、19世紀末のパリを舞台に活躍した画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが1886年に制作した《サン=ラザールにて》です。この作品は「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」において、フィンセント・ファン・ゴッホとその弟テオが収集したコレクションの一部として展示されています。

制作背景・経緯・意図 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)は、フランス南西部のアルビに生まれた貴族出身の画家です。幼少期に負った怪我により両足の成長が止まり、身長が約150センチメートルに留まったという身体的な特徴は、彼の人生観や芸術観に大きな影響を与えました。彼は芸術の世界に没頭し、パリに出てモンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾で学び、そこでフィンセント・ファン・ゴッホとも出会っています。

ロートレックは、モンマルトルのキャバレーやダンスホール、売春宿といった夜の歓楽街に深く入り込み、そこで働く人々や客たちの姿を鋭い観察眼で捉えました。彼は、社会の片隅で生きる人々の人間性や内面を、美化することなく、時には赤裸々に、しかし深い共感をもって描き出しました。彼自身の身体的な制約が、周囲から差別や嘲笑を受けることのない娼館を安堵できる場所とし、娼婦たちとの間に共感を見出したとも言われています。

本作品《サン=ラザールにて》は、1886年というロートレックがパリの社交界に没頭し始めた時期に制作されました。作品に描かれた女性は、パリのサン=ラザール刑務所と関連付けられています。この刑務所は当時、売春婦が収容されることもあり、クリスティーズのオークション解説によると、本作品は「梅毒の帽子をかぶり、嘆願するように手紙を書いている娼婦の一人」を描いた可能性が指摘されています。ロートレックは、この作品を通して、当時のパリ社会の厳しさや、社会の周縁に生きる人々の内面、そしてその中に垣間見える人間性を表現しようとしたと考えられます。

技法や素材 本作は、鉛筆と「パンチュール・ア・レサンス」と呼ばれる油彩技法、そして厚紙を用いて制作されています。パンチュール・ア・レサンスとは、テレピン油などの溶剤で薄めた油絵具を使用する技法であり、油絵具でありながら水彩画やパステル画のような速乾性とマットな仕上がりを特徴とします。これによりロートレックは、モンマルトルの活気ある光景や人物の一瞬の動きを素早く捉え、その場の雰囲気を作品に凝縮することができました。厚紙という支持体自体が作品の一部となり、その色が絵具の層を通して現れることで、独特の色彩効果を生み出しています。

ロートレックは、卓越したデッサン力でモデルの内面を引き出すことに長けており、日本の浮世絵から影響を受けた平面的な表現や大胆な構図も作品に取り入れました。彼はしばしば茶色や灰色の厚紙に直接描き、その地の色を作品のトーンとして活かしました。彼の作品には、鮮烈な緑や赤、そして青の影が特徴的に用いられることがあります。

作品の意味 《サン=ラザールにて》に描かれた女性像は、19世紀末のパリ社会、特に歓楽街の裏側で生きる人々の現実を象徴しています。サン=ラザール刑務所が持つ社会的背景と、そこで女性が手紙を書く姿は、孤独、切望、あるいは社会に対する複雑な感情を暗示しています。ロートレックは、こうした主題を感傷的にではなく、観察者として、しかし共感をもって描写することで、人間の本質に迫ろうとしました。この作品は、シャンソン歌手アリスティード・ブリュアンの雑誌『ル・ミルリトン』の表紙を飾り、彼の歌の「皮肉で感傷的なムード」を反映していると評されました。

評価や影響 「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」において本作品が展示されていることは、フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオが、兄の作品だけでなく、同時代の他の重要な画家の作品にも目を向け、コレクションしていたことを示しています。ロートレックとゴッホはコルモンの画塾で共に学んだ旧知の仲であり、この作品は二人の芸術的な交流の時代を物語るものとも言えるでしょう。

ロートレックの作品は、その後の美術界にも大きな影響を与えました。彼のデッサン力、大胆な構図、そしてポスター芸術と純粋絵画を融合させた革新的なスタイルは、グラフィックデザインの発展に貢献しました。特にパブロ・ピカソは、彼の「青の時代」におけるサン=ラザール刑務所の女性像の描写において、本作品に影響を受けたとされています。ロートレックは後期印象派の主要な画家の一人として位置づけられ、世紀末パリの空気を伝える貴重な作品群は、今日でも世界中の多くの人々を魅了し続けています。