渓斎英泉 Keisai Eisen
「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」にて紹介される、渓斎英泉の作品「夜の楼」について解説します。
「夜の楼」は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師、渓斎英泉(けいさいえいせん)によって嘉永2年から4年(1849-51年)にかけて制作された大判錦絵です。本作品は、フィンセント・ファン・ゴッホ財団が所蔵し、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館のコレクションに含まれており、今回の展示では、ゴッホ作品の背景にある日本美術の影響や、ゴッホ家が受け継いできたコレクションの一部として紹介されています。
渓斎英泉は、寛政3年(1791年)に下級武士の家に生まれ、幼少期から狩野派の絵画を学びました。その後、浮世絵師・菊川英山(きくかわえいざん)に師事し、浮世絵の技法を習得しています。英泉は、絵師としてのみならず、戯作者としても活躍し、一筆庵可候(いっぴつあんかこう)の号で文筆活動も行いました。
彼の画業は、当初、師である英山の上品な作風を踏襲していましたが、文政年間に入ると、当時の世相を反映した、より退廃的で妖艶な美人画へと作風を確立していきます。厚い下唇と強い意志を湛えた眼差しが特徴的な女性像は、当時の人々に広く受け入れられ、人気を博しました。英泉自身もまた、酒と女性を愛する奔放な生涯を送ったとされ、一時期は遊女屋を経営した経験も、その作品に影響を与えたと考えられています。しかし、英泉は嘉永元年(1848年)に57歳で亡くなっています。作品の制作年代が1849-51年と英泉の没年以降となっていることから、これは生前に制作された版下絵に基づき、死後に摺られたもの、あるいは版元の意向で後年に制作・刊行された可能性があると推測されます。
「夜の楼」は「大判錦絵(おおばん にしきえ)」という技法で制作されています。錦絵とは、多色摺りの木版画のことで、版元、絵師、彫師、摺師という専門の職人たちの分業体制によって生み出されました。まず、絵師が描いた下絵を版元が企画し、監修します。次に、絵師が墨一色で描いた「版下絵(はんしたえ)」を元に、彫師が主線となる墨版と、色ごとに分けられた複数の色版を木版に彫り起こします。最後に摺師が、和紙の上に墨版と色版を何枚も正確に摺り重ねることで、豊かな色彩を持つ錦絵が完成します。この精密な職人技により、繊細な表現や鮮やかな色彩が実現されています。
英泉の美人画は、遊女や芸妓といった当時の女性たちの姿を、内面に秘めた情念や妖艶さを湛えた独自の美意識で描き出しています。厚い下唇、胴長で猫背気味の姿、そして屈折した感情が込められた表情は、退廃的ながらも力強い女性像として、当時の江戸の人々に強い印象を与えました。本作「夜の楼」もまた、夜の情景の中で、遊郭などに生きる女性の美しさと、その奥に秘められた情感を表現していると考えられます。当時の社会や文化、人々の嗜好を映し出す鏡のような役割を果たしていたと言えるでしょう。
渓斎英泉は、浮世絵美人画の大家の一人とされ、その独特の退廃的な美意識は当時の世相に受け入れられ、絶大な人気を誇りました。また、歌川広重(うたがわひろしげ)との合作による風景画「木曽街道六十九次」でも知られています。
英泉の作品は、遠く離れた西洋の芸術家にも影響を与えました。特にフィンセント・ファン・ゴッホは、浮世絵を熱心に収集し、自身の作品にその構図や色彩、モチーフを取り入れるなど、多大な影響を受けています。本作品「夜の楼」がファン・ゴッホ美術館のコレクションに収められ、今回の「ゴッホ展」で展示されていることは、英泉の芸術が時代と国境を越え、後世の芸術家たちに与えた影響の大きさを物語っています。