円山応挙
「円山応挙—革新者から巨匠へ」展において紹介される円山応挙の「梅鯉図屏風」は、天明7年(1787年)に制作された二曲一隻の作品です。本作品は、江戸時代中期に京都画壇の革新者として活躍した円山応挙の画業を示すものとして、近年注目されています。
円山応挙は享保18年(1733年)に丹波国(現在の京都府)に生まれ、若くして京都へ出て画技を磨きました。狩野派の画家である石田幽汀に学びつつも、既存の様式に捉われず、実物を写し取る「写生」を重視する独自の画風を確立しました。この写生画は、当時の鑑賞者にとって、目の前にあるかのような現実感を与える「バーチャル・リアリティ」として受け止められ、京都画壇に大きな変革をもたらしました。 本作品「梅鯉図屏風」は、同時期に京都で活躍した絵師である伊藤若冲の「竹鶏図屏風」と対をなす二曲一双の屏風として制作されました。これは、これまで直接的な交流を示す資料がほとんどなかった応挙と若冲の、現存する唯一の合作と考えられています。 制作の背景には、当時の京都画壇で人気を二分した二人の絵師に、それぞれの得意な画題を指定して依頼した発注者がいたと推測されています。 応挙が鯉の描写に優れ、若冲が鶏の描写を得意としたことから、互いの画力を意識し、競い合う形で制作されたと考えられます。
「梅鯉図屏風」は、紙本金地墨画の二曲一隻の屏風です。金地に墨で描くことで、華やかさと奥行きが表現されています。応挙は、徹底した写実に基づき、二次元の平面に三次元の立体感を表現する技法に長けていました。本作品に見られる鯉の緻密な鱗の描写は、応挙の写実へのこだわりを示すものです。 また、対照的に大胆な筆致で描かれた梅の枝とのコントラストも本作品の見どころの一つであり、余白を活かした構図は応挙の洗練された画風を象徴しています。
梅は厳寒の中でいち早く花を咲かせることから、古くから忍耐や清らかさ、そして生命の再生を象徴する吉祥のモチーフとして親しまれてきました。一方、鯉は生命力と力強さの象徴であり、特に激流を遡り龍門を越えるという伝説(登龍門)から、立身出世や成功、不屈の精神を表すとされています。応挙は、これらの伝統的な画題を、自身の写生に基づく写実的な表現によって、より生々しく、鑑賞者に迫るかたちで描き出しました。伊藤若冲の「竹鶏図屏風」との合作という点では、それぞれの画題が持つ象徴的な意味を、当時を代表する二大絵師がそれぞれの解釈と技量で表現し合う、特別な意味合いも含まれています。
「梅鯉図屏風」と対となる伊藤若冲の「竹鶏図屏風」の発見は、日本美術史における「世紀の大発見」と評されており、国宝級の価値を持つ作品とされています。 これまで直接的な交流の記録が乏しかった応挙と若冲の接点を示す貴重な資料として、両者の関係性や当時の京都画壇の研究に新たな視点をもたらしました。 本作品は、応挙が「革新者」から「巨匠」へと昇華していく過程を示す重要な作品の一つであり、その後の円山四条派の発展にも影響を与えました。 その芸術的価値と歴史的意義から、多くの展覧会で注目作品として公開されています。