円山応挙
本記事では、三井記念美術館で開催される展覧会「円山応挙―革新者から巨匠へ」に出品される、円山応挙筆の重要文化財「竹林七賢図襖」を紹介します。この作品は、寛政6年(1794年)に香川・金刀比羅宮のために制作された8面からなる襖絵です。
「竹林七賢図襖」は、金刀比羅宮の表書院に描かれた障壁画の一部です。表書院は、別当金光院の客殿として儀式や貴顕の応接などに使用される重要な空間でした。応挙は、この表書院のために「鶴の間」「虎の間」「七賢の間」「上段之間」「山水之間」といった複数の部屋の襖絵を手がけており、「竹林七賢図襖」は「七賢の間」を飾るために描かれました。
「七賢の間」という呼称は応挙が描く以前から存在しており、この部屋に「竹林七賢」を主題とする絵画を配置する伝統があったことがうかがえます。応挙は、そうした伝統的な画題に対し、自身の確立した画風をもって挑みました。この作品は、応挙が写実性を追求した画風で京都画壇の最高峰に立ち、その円熟期に制作された晩年の傑作の一つと評価されています。
この作品は、紙に墨で描かれた「紙本墨画」(しほんぼくが)の襖絵です。円山応挙は「写生」を重視した画風の祖として知られ、対象をありのままに捉える観察眼と描写力に長けていました。初期には西洋の遠近法を取り入れた「眼鏡絵」(めがねえ)の制作にも携わるなど、革新的な試みを重ね、その画力は見る者に「眼前に迫ってくる」ような実在感を与えたと評されています。
「竹林七賢図襖」においても、応挙は写生に基づく確かな描写力と、水墨表現の妙を融合させています。竹林の奥行きや七賢人たちの自然な姿は、単なる古典的な主題の模倣に留まらない、応挙ならではの生命感に満ちた表現となっています。
「竹林七賢」とは、中国・晋の時代に、乱れた世を嫌って竹林に隠棲し、琴を弾じ、酒を酌み交わし、清談(せいだん)にふけったとされる七人の賢人の故事を指します。彼らは目まぐるしい社会情勢や権力者への追従を嫌い、儒教的な道徳や礼節を重んじる世間から離れ、老荘思想に基づく無為の生活を送ったとされています。
この主題は、俗世を超越した高潔な精神や、自然の中での自由な生き方を象徴しており、東アジアの絵画において古くから好んで描かれてきました。応挙の描く七賢人たちは、写実的ながらも理想化された姿で、静謐な竹林の中でそれぞれの思索にふける様子が描かれ、隠逸の思想を伝えています。
「竹林七賢図襖」は、その芸術的価値の高さから国の重要文化財に指定されています。応挙の作品は、写実と装飾が見事に融合した円熟期の様式を示しており、金刀比羅宮の表書院を飾る他の障壁画とともに、彼の晩年の代表作として高く評価されています。
円山応挙は、写生を基盤とした新たな画風を確立し、近現代の京都画壇にまで続く「円山派」(まるやまは)の祖となりました。彼の革新的な絵画は、瞬く間に京都画壇を席巻し、多くの弟子たちが集まって「円山四条派」(まるやましじょうは)という一大潮流を形成しました。応挙の「竹林七賢図襖」は、こうした日本絵画史における彼の重要な位置づけを示す作品の一つであり、その後の絵師たちにも大きな影響を与え続けました。