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驟雨江村図

円山応挙

円山応挙「驟雨江村図」:写生に根ざした革新が生み出す迫真の情景

現在開催中の「円山応挙―革新者から巨匠へ」展において、円山応挙が明和6年(1769年)に制作した「驟雨江村図」(しゅううこうそんず)が展示されています。本作品は、一幅の掛軸として、応挙の革新的な画業の一端を示す貴重な作品です。

制作の背景と意図 円山応挙は、享保18年(1733年)に丹波国に生まれ、江戸時代中期から後期にかけて京都画壇で活躍した絵師です。 彼は写生を重んじる画風を特色とし、懐には常に写生帖を忍ばせていたと伝えられています。 明和3年(1766年)頃に「応挙」の号を使い始めますが、これは中国宋末から元初の画家である銭舜挙(銭選)に比肩する絵を描こうとする応挙の意図が込められていると言われています。

「驟雨江村図」が描かれた明和6年(1769年)は、応挙が円満院門主祐常の知遇を得て、本格的な画家としての道を歩み始めた「円満院時代」(明和4年〜安永2年)に重なります。 この時期、応挙は新しい絵画芸術を目指し、試行錯誤を繰り返す中で写生に対する独自の考え方を確立していきました。 「驟雨江村図」における烈風と雨雲という形なき気象の描写は、まさに目に見える事物を忠実に写し取るだけでなく、その場の空気感や動的な現象をも写生によって表現しようとする応挙の意欲を示すものです。

用いられた技法と素材 応挙の画風は、個物に肉薄する写生的な態度と東洋画の伝統的な装飾性を兼ね備えた独自の境地を拓きました。 彼の作品には、輪郭線を用いずに形と色を同時に描く「付け立て(付立て)」や、片側からぼかすことで立体感や陰影を表現する「片ぼかし」といった技法が多用されています。 これらの技法は、後の円山派のお家芸となり、その写実的な表現を支えました。

また、応挙は「墨地下地技法」という独自の技術を開発したと推測されています。 これは、先に墨で濃淡を施した上に岩絵具を重ねることで、限られた色材の中から豊富な色調を生み出し、岩絵具の物質感を抑え、写生画により適した奥行きや立体感のある表現を可能にするものです。 「驟雨江村図」の具体的な素材についての記述はありませんが、応挙の多くの作品に見られるように、絹本に墨画淡彩で描かれたものと推測されます。

作品の意味と与えた影響 「驟雨江村図」に描かれた、吹き荒れる烈風と降りしきる雨は、単なる風景描写に留まらず、その一瞬の気象現象が持つ迫力と情感を写実的に捉えようとする応挙の真骨頂を示しています。 応挙の新しい写生画は、「あたかもその場にいるかのような」「本物らしい」感覚を鑑賞者に与える「しかけ」に満ちていたと評価されており、この作品もまた、仮想現実のように迫ってくる絵画表現として当時の人々に驚きを与えたことでしょう。

円山応挙は、18世紀の京都画壇における「革新者」として、日本の絵画に新たな基準を打ち立てました。 彼の写生を重視した画風は、当時の鑑賞者にとってこれまでにない「バーチャル・リアリティー」として眼前に迫り、後に続く京都画壇に大きな影響を与え、「円山派」の祖となりました。 近年、伊藤若冲などの「奇想の画家」に注目が集まる中でも、応挙が日本美術史において確立した地位は揺るぎないものであり、その革新性は現代においても高く評価されています。