円山応挙
本稿では、現在開催中の「円山応挙―革新者から巨匠へ」展において展示されている、和泉市久保惣記念美術館所蔵の円山応挙筆「写生図」(江戸時代・18世紀、14枚のうち4枚)をご紹介します。
円山応挙は1733年、丹波国(現在の京都府亀岡市)の貧しい農家に生まれ、若い頃に京都に出て、玩具店で働きながら画技を磨きました。一時は狩野派の画家、石田幽汀に師事しましたが、多くを独学で学び、独自の画風を確立していきます。特に、西洋の遠近法を取り入れた「眼鏡絵」の制作に携わった経験は、その後の奥行き表現に大きな影響を与えました。また、中国の緻密な写生画法からも多くを学びつつ、それらを日本の美意識に合うよう昇華させました。
応挙の制作の根幹にあったのは「写生」、すなわち対象をありのままに観察し描写することでした。当時の絵画制作においては、絵を描くための準備作業として写生が行われることはありましたが、それが作品に直接反映されることは稀でした。しかし応挙は、自らの目で見たものを最も重視し、自然界の形体や空間を再現することを目指しました。 その意図は、鑑賞者にまるで目の前に実物が存在するかのような臨場感、「バーチャル・リアリティ」を提供することにありました。
「写生図」は、応挙が自然観察を重視した姿勢を示す貴重な資料であり、動植物の形状や色彩に関する詳細なメモが記されているものもあります。 彼は、単に写実的に描くだけでなく、鑑賞者が「本物らしい」と感じるような「仕掛け」を作品に施しました。
具体的な技法としては、輪郭線を用いずに墨の濃淡で直接描く「付立(つけたて)」や、片方をぼかす「片隈(かたくま)」といった速写描法を駆使しました。 また、岩絵具の発色を豊かにし、対象の立体感を際立たせるために、先に墨で濃淡を施してから上から絵具をかける「墨地下地技法」も用いられました。 線質にもこだわり、自らの意図を表現するために専用の筆を作らせたという逸話も残っています。 「写生図」自体は、紙を素材に墨や淡彩で描かれることが多く、その優れた観察眼と描写力が遺憾なく発揮されています。
応挙の「写生図」は、彼の絵画制作における基礎であり、弟子たちへの教えの基盤でもありました。彼は、実際の写生だけでなく、「典型を求める写生」や、複数の写生を組み合わせて理想の形を創り出す「部分写生の合成」といった手法も用いました。これにより、想像上の動物である龍さえも、まるで生きたものを見たかのような息遣いを感じさせるまでに描き出すことを可能にしました。
これらの「写生図」は、従来の因習的な絵画表現に囚われず、徹底した観察に基づき、いかに現実を絵画の中に再現するかという応挙の探求の軌跡を示しています。
円山応挙は、18世紀の京都画壇において「革新者」として登場し、その画風は瞬く間に京都を席巻しました。 彼の「写生画」は、当時の人々にとって、それまでの絵画にはなかった新しい視覚体験をもたらしました。 応挙の人気は絶大で、当時の京都の有名人番付では一位に輝くほどでした。
応挙は「円山派」の祖となり、長沢芦雪をはじめとする多くの弟子を育て、その革新的な写実描写と伝統的な装飾性を融合させた画風は、明治以降の近代日本画にまで大きな影響を与えました。 近年、同時代の奇想の画家たちに注目が集まる中でも、応挙の日本美術史における確固たる地位と、その功績が再評価されています。 「写生図」は、応挙が「革新者」から「巨匠」へと至る過程において、いかに徹底した観察と探求を重ねたかを示す、重要な遺産であると言えるでしょう。