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遊虎図襖

円山応挙

円山応挙 「遊虎図襖」:革新者が描いた迫真の虎たち

本記事では、展示会「円山応挙―革新者から巨匠へ」に出品されている、円山応挙の重要文化財「遊虎図襖」(ゆこうずふすま)についてご紹介します。本作は、天明7年(1787年)に香川県の金刀比羅宮のために制作された、全16面のうち12面が現存する襖絵です。

制作背景・経緯・意図

「遊虎図襖」は、江戸時代中期の京都画壇を代表する画家である円山応挙(1733-1795)が、晩年に近い天明7年(1787年)、55歳の時に手掛けた障壁画群の一部です。応挙は丹波国穴太村(現在の京都府亀岡市)の農家に生まれ、京都に出て狩野派の石田幽汀に師事した後、西洋画や中国画の写実技法を研究し、写生を重視する円山派を確立しました。

この襖絵は、海上交通の守り神として信仰を集める金刀比羅宮(香川県)の表書院に奉納されたものです。表書院は、万治年間(1658-1660年)に建てられた客殿であり、金毘羅大権現に奉仕する別当金光院が、皇族や将軍、大名といった要人との応接の場として使用していました。応挙はこの表書院の五つの間にわたる障壁画を手掛けており、「遊虎図襖」は、その中でも最も広い部屋の一つである「虎の間」を飾る作品です。これらの金刀比羅宮の障壁画群の制作には、当代屈指の豪商であった三井家が強力な資金援助を行いました。

応挙が「遊虎図襖」を描いた意図は、写生に基づく迫真の表現によって、当時の鑑賞者にとって、あたかも目の前に虎がいるかのような「バーチャル・リアリティ」を創出することにあったとされます。虎は古来より魔除けや開運上昇の霊獣とされ、一日千里を行き千里を帰すという例えから、その勇猛さが尊ばれてきました。応挙は、この空間に訪れる要人たちに、その力強い存在感を示すことを意図したと考えられます。

技法・素材

応挙は「写生」を画業の基盤とし、身近な動植物や風景を徹底的に観察し、その姿を絵画に定着させることに腐心しました。しかし、彼が活躍した江戸時代の日本では、生きた虎を直接観察することは不可能でした。そのため、応挙は中国伝来の虎の絵画や輸入された虎の毛皮、あるいは猫を写生するなどして、虎の姿を研究したと伝えられています。

「遊虎図襖」には、墨と淡彩による精緻な描写が用いられています。特に、虎の毛並みは、短い筆線を重ねる「付立て」の技法を駆使し、輪郭線を用いずに描くことで、柔らかな質感と「モフモフ感」と評される独特の臨場感を生み出しています。画面には雄大な岩や滝が配され、虎たちが水を飲んだり、遊んだりする姿が生き生きと描かれています。この写実的な表現に伝統的な装飾性を融合させることで、大画面の襖絵として優れた効果を上げています。

意味合い

「遊虎図襖」に描かれた虎は、その威厳ある姿の中にどこか愛らしさを感じさせるのが特徴です。これは、応挙が写生の対象として猫や毛皮を用いたことによるとも言われています。特に「虎の間」に描かれている「水呑みの虎」や、部屋のどこから見ても視線が合うように描かれたとされる「八方睨みの虎」は著名です。これらの虎は、単に写実性を追求しただけでなく、古くから信じられてきた魔除けや家内安全といった吉祥の意味を込めて配置されており、金刀比羅宮という聖なる空間を守護する存在として、鑑賞者に精神的な安寧をもたらす役割を担っていました。

評価と影響

円山応挙の「遊虎図襖」は、その革新的な写実表現と力強い構成によって、当時の京都画壇に大きな影響を与えました。従来の絵画が理想化された表現を主流としていた中で、応挙の描く絵は、目の前にあるかのような現実感をもって鑑賞者に迫り、新たな視覚体験をもたらしました。この画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、多くの弟子たちが応挙を慕い、円山四条派という一大流派を形成する礎となりました。

「遊虎図襖」は、応挙の代表的な作品の一つとして、国の重要文化財に指定されています。特に、その虎の描写は、弟子の長沢芦雪をはじめとする後世の画家たちにも影響を与え、芦雪の「虎図襖」など、応挙の写生精神を受け継ぎつつも、独自の表現を探求する作品が数多く生み出されました。

21世紀の現代においても、応挙の絵画は「普通の絵」に見えるかもしれませんが、18世紀の人々にとっては、それまで見たことのない「視覚を再現してくれる絵」として受け止められました。本展「円山応挙―革新者から巨匠へ」において「遊虎図襖」が特別出品されることは、応挙が「革新者」から「巨匠」へと至る過程と、その画業が現代に与え続ける影響の大きさを物語っています。特に、虎の毛皮にまで注目して描かれたとされるその「モフモフ感」は、現代の鑑賞者にも強い印象を与え続けています。