円山応挙
「円山応挙―革新者から巨匠へ」展で紹介される円山応挙の傑作、「龍門図」についてご紹介します。本作品は、3幅対の掛軸として寛政5年(1793年)に制作され、京都国立博物館に所蔵されている重要美術品です。
円山応挙(1733-1795)は、江戸時代中期から後期にかけて京都で活躍した絵師であり、「円山派」の祖として知られています。彼の画風は「写生」を重視するもので、対象をありのままに捉える写実的な描写に、日本の伝統的な装飾画法を融合させた独自のスタイルを確立しました。応挙は明和3年(1766年)に「応挙」の雅号を名乗り始め、これは中国宋末から元初の画家である銭舜挙に劣らない絵を描こうとする意図が込められていたとされます。
「龍門図」が描かれた寛政5年(1793年)は、応挙が60歳を迎えた晩年にあたり、彼の死のわずか2年前の作品です。この時期の応挙は、病と老衰に苦しみながらも創作活動を続けており、その作品にはさらなる表現の深みや実験性がうかがえます。
本作品の画題である「龍門」とは、中国の故事「登竜門」に由来します。黄河の急流にある龍門という場所を多くの鯉が登ろうとするものの、ほとんどが登りきれず、しかし、見事に登りきった鯉は龍になるという伝説です。この故事は、立身出世や成功、あるいは困難を乗り越えて大成することを象徴しており、応挙は伝統的なこの画題を、彼独自の現代的な感覚と革新的な描写で再解釈しました。
「龍門図」は絹本著色(絹に彩色)で描かれています。応挙の「龍門図」における特筆すべき技法は、激しく流れ落ちる滝の水流を、あえて「描かない」ことで表現する「白ヌキ」の技法です。鯉の姿を明確に描きながらも、その周りの水の勢いや躍動感を白い余白として残すことで、見る者の想像力を喚起し、鯉が力強く滝を遡上する様子をより鮮烈に印象づけています。
また、鯉の体の立体感や鱗の質感には、墨の濃淡を巧みに使い分けるグラデーションの技法が駆使されています。応挙は単なる写実を超え、目に見えない風や水、雰囲気といった「虚」をも写生によって表現しようと努めました。この「白ヌキ」の表現は、当時の日本画壇において非常に斬新で大胆な発想であり、応挙の類まれな描写力と創造性を物語るものです。
「龍門図」は、登竜門の故事が持つ象徴的な意味を深く掘り下げています。激流に立ち向かい、困難を乗り越えようとする鯉の姿は、ひたむきな努力と不屈の精神を表し、やがて龍へと変貌を遂げることで、その努力が報われる大いなる成功と飛躍を示唆します。応挙は、鯉の力強い動きと、水の流れを暗示する革新的な表現によって、この古くからの伝説に新たな生命を吹き込み、鑑賞者に強い感動と共感を与えています。
円山応挙の「龍門図」は、後世の「鯉の滝登り」を題材とした絵画の一つの規範となったと評価されています。特に、水の描写に用いられた「白ヌキ」の技法は、その斬新さから、現代のシュルレアリスムを約100年先取りした表現とも評されるほどです。応挙の写実主義と装飾性の融合は、当時の画壇に大きな変革をもたらし、「円山派」を確立しました。彼の画風は、呉春や長沢芦雪といった優れた弟子たちに受け継がれ、明治以降の近代日本画の展開にまでその影響が及び、今日の京都画壇の源流の一つとなっています。本作品は、応挙の円熟した技量と革新的な精神を象徴する、彼の代表作の一つとして高く評価されています。