円山応挙
本作品は、江戸時代中期に活躍した絵師、円山応挙が明和2年(1765年)に制作した「破墨山水図」です。この作品は、三井記念美術館に収蔵されており、現在開催中の展覧会「円山応挙―革新者から巨匠へ」において、応挙が「革新者」から「巨匠」へと変遷していく過程を示す重要な作品の一つとして紹介されています。
円山応挙は享保18年(1733年)に京都で生まれ、10代後半で狩野派の画家、石田幽汀に師事しました。20代の頃には、西洋の遠近法を応用した「眼鏡絵」の制作にも携わっており、その経験を通じて培われた写実的な表現は、後の応挙の画風の根幹となります。明和3年(1766年)に「応挙」の号を名乗り始める直前の明和2年(1765年)に描かれた本作は、彼が新たな画境を拓きつつあった時期の作例です。応挙は、中国の古画や西洋画法を独自に研究し、写生に基づいた「写生画」という新画風を確立しました。当時の鑑賞者にとって、応挙の描く絵は、まるで目の前に実物が存在するような臨場感を与える「バーチャル・リアリティー」として受け止められました。この「破墨山水図」もまた、伝統的な山水画の形式に、応挙ならではの革新的な視覚表現を融合させようとする意図がうかがえます。
「破墨山水図」という名称が示す通り、墨の濃淡やにじみを巧みに用いる破墨の技法が中心となっています。応挙は、墨の濃淡によって松の幹や枝に立体感を与えるなど、写実的な描写に深く寄与する墨の表現を追求しました。同時期に制作された応挙の作品には、絹地に墨の濃淡で描写し、背景に薄く金泥を刷くことで、絹地の白さを雪に見立てるという精緻な技法も見られます。応挙は、輪郭線を用いない「没骨技法」も特徴の一つとしており、対象物の質感や量感をより効果的に表現しました。本作においても、墨のにじみやぼかしを駆使することで、山々の深さや霧の立ち込める情景、あるいは水辺の空気感などが繊細かつ大胆に表現されていると考えられます。
応挙の山水画は、必ずしも実在の風景を描いたものではなく、人々の心の中にある理想の景色を表現することがありました。時に俗世を離れて隠棲する高士の姿を配し、理想的な生活への憧憬を込めることもありました。この「破墨山水図」も、写実に基づきながらも、単なる風景描写に留まらず、観る者が心を遊ばせることのできる精神的な奥行きを持つ作品として制作されたと推測されます。多様な視点を取り入れることで、鑑賞者の視線を誘導し、壮大な自然の中に没入させるような構成は、応挙の山水画に共通する特徴です。
円山応挙の画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、当代随一の人気画家となりました。彼の写生に基づいた絵は、18世紀の人々にとって、それまでの絵画表現とは一線を画すリアリティと新鮮さをもたらしました。多くの弟子が応挙を慕い、後の円山四条派を形成するに至ります。この「破墨山水図」が制作された明和2年(1765年)は、応挙がまだ「革新者」としての評価を確立しつつあった時期にあたり、その後の「巨匠」としての地位を築く上での重要な一歩を示しています。彼の革新的な写実表現は、近代日本画の源流となり、今日に至るまで多大な影響を与え続けています。