円山応挙
三井記念美術館にて開催される「円山応挙―革新者から巨匠へ」展において、円山応挙の代表作の一つである「富士図」が展示されます。寛政4年(1792年)に制作された本作品は、応挙最晩年の画境を示す貴重な一幅であり、その背景、技法、そして後世への影響は、日本美術史において重要な意味を持ちます。
円山応挙(1733-1795)は、江戸時代中期から後期にかけて京都で活躍した絵師であり、「円山派」の祖として知られています。彼は丹波国(現在の京都府亀岡市)の農家に生まれ、若い頃には狩野派の画家・石田幽汀に師事しました。しかし、応挙は伝統的な画法に留まらず、眼鏡絵の制作を通じて西洋の遠近法を習得し、中国画の写実技法も研究しました。こうした多岐にわたる学習を経て、応挙は「写生」を重視し、観察に基づいた再現的な描写と、伝統的な日本の装飾的な画面構成を融合させた独自の画風を確立しました。
「富士図」は、応挙が63歳で没する3年前の寛政4年(1792年)に描かれた晩年の作品です。この時期の応挙は、すでに画壇で不動の地位を築き、豪商三井家をはじめとする有力なパトロンの支援を受けていました。三井記念美術館に収蔵されていることからも、本作が三井家との深い関係の中で制作または所蔵された可能性が高いと考えられます。最晩年においても、応挙が日本の象徴である富士という伝統的な画題に、自身の確立した革新的な表現を追求し続けた意図が窺えます。
応挙の画風の最大の特徴は、徹底した写生に裏打ちされた写実性です。彼は常に写生帖を携帯し、身近な動植物や風景を克明に描写したと伝えられています。しかし、彼の写生は単なる模写に終わらず、対象の本質を捉え、それを再構成するものでした。
「富士図」においては、この写生を基盤としつつも、墨の濃淡のみを用いることで富士山の山頂から裾野にかけての雄大なシルエットと、たなびく雲を見事に表現しています。繊細な線描だけでなく、水墨画における「付立て」の技法のように、輪郭線を用いずに筆致の濃淡で形や立体感を表す面的な表現に、晩年の応挙が新たな関心を示していたことがわかります。これにより、実景の持つ臨場感と、画面全体の装飾性、そして雄大な自然の精神性が共存する、応挙ならではの富士山が描出されています。本作は一幅の掛け軸形式で、紙本に描かれた淡彩画と推測されます。
富士山は、日本の象徴として古くから信仰と芸術の対象となってきた神聖な山です。応挙がこの画題に取り組んだことは、自身の革新的な画風をもって日本の伝統的な美意識に挑み、新たな表現の可能性を示そうとしたことを意味します。
「富士図」では、写実的な観察力と、墨の濃淡による象徴的な表現が融合しています。これにより、単なる風景描写を超え、見る者に雄大な自然への畏敬の念や、静謐な精神性をもたらす普遍的な意味合いを帯びています。晩年の応挙が、自身の絵画の到達点として、簡潔かつ力強い表現で日本の聖なる山を描き出したことは、その画業の集大成の一つとして位置づけられます。
円山応挙の作品は、その卓越した画技と平明で親しみやすい画風から、当時の富裕な町人層に広く受け入れられ、絶大な人気を博しました。彼は当時の人々にとって、それまでの絵画にはなかった「視覚を再現してくれる絵」、いわば「ヴァーチャル・リアリティ」のような迫真の表現をもたらした「革新者」でした。
応挙が確立した写生と伝統的装飾画を融合させる技法は「円山派」として継承され、長沢芦雪や呉春をはじめとする多くの弟子を育てました。その画風は瞬く間に京都画壇を席巻し、近代の京都画壇にまでその系譜が続く「円山・四条派」の源流となりました。現代の日本画の基盤を築いた画家として、応挙の作品は今なお高い評価を受け、その革新的な精神と表現は後世の画家たちに多大な影響を与え続けています。
「富士図」が今回の「円山応挙―革新者から巨匠へ」展で展示されることは、応挙が晩年においても、単なる巨匠として安住することなく、新たな表現を追求し続けた「革新者」としての側面を再認識する貴重な機会となるでしょう。