円山応挙
本記事では、展示会「円山応挙―革新者から巨匠へ」に出展される円山応挙の作品「元旦図」についてご紹介します。
江戸時代中・後期に活躍した絵師、円山応挙は、丹波国穴太村(現在の京都府亀岡市)に農家の次男として生まれました。幼少期に京都に出て、狩野派の画家である石田幽汀のもとで画技を学びます。その傍ら、西洋画の遠近法を応用した「眼鏡絵」の制作に携わり、西洋の写実技法を習得しました。また、円満院門主の祐常法親王との出会いを通じて、中国古画や清朝画の写実技法も深く研究しています。これらの経験から、応挙は既存の日本絵画の様式にとらわれず、目前の対象を写し取る「写生」を基盤とした新たな画風を確立しました。明和3年(1766年)に「応挙」の雅号を名乗り始めた際には、中国宋元時代の画家である銭舜挙に比肩する画力を目指すという意図が込められていたとされます。 「元旦図」は、一幅の掛軸として描かれた作品です。初日の出を拝む人物の後ろ姿を描くという、当時としては革新的な構図で制作されました。この作品の人物は、応挙自身の後ろ姿であるとも言われており、新年の厳かな始まりに際し、新たな芸術への抱負や、後進への志を背中で語っているかのような個人的かつ象徴的な意味が込められていると解釈されています。
「元旦図」は江戸時代・18世紀に制作された一幅の絵画です。作品には、横長の画面の右下に裃を着た人物が背を向けて立ち、左上には薄墨色の山の稜線から昇りゆく朱色の太陽の一部が描かれています。人物の背後に長く伸びる影は、太陽光の強さを物語っています。 応挙の画風は、徹底した写生に基づく写実性と、伝統的な装飾性を融合させた点に大きな特徴があります。彼は輪郭線を用いずに描く「付立て」や、片側のみにぼかしを入れる「片ぼかし」といった没骨法を巧みに駆使しました。これにより、対象の形態的特徴を的確に捉えつつ、精緻な描写と柔らかな質感表現を可能にしています。 「元旦図」における極めてシンプルな構図と、余白を大胆に活かした表現は、応挙が空間構成においても卓越した感覚を持っていたことを示しています。
「元旦図」は、元日の朝に太陽を拝む日本の伝統的な風習「初日の出」を描いた作品です。一人、初日の出に対峙する人物の姿は、見る者にその人物が何を願っているのか、どのような思いで新年を迎えているのかを想像させ、厳粛な気分を呼び起こします。 この作品の構図は、現代のイラストレーションのようにも見えるほどモダンであると評され、その大胆な配置と象徴的な描写は、応挙の革新者としての側面を強く示しています。
円山応挙は、写生を基盤とした平明で親しみやすい画風を確立し、当時の京都で絶大な人気を博しました。彼の作品は、豪商三井家をはじめとする富裕な町人層から寺社まで、幅広い層に支持されました。 応挙が創始した「円山派」は、写生を重視する画風が特色であり、長沢芦雪や呉春をはじめとする多くの優れた門人を育て、「円山・四条派」として近代の京都画壇にまでその伝統を繋ぎ、日本画壇に大きな影響を与えました。 「元旦図」に見られるような、少ない要素で深い意味とモダンな感覚を表現する応挙の力量は、今日の視点から見ても高く評価されています。彼は、18世紀の人々にとって「見たこともないヴァーチャル・リアリティー」のような迫真性のある絵を描き、日本画に革新をもたらした巨匠として、現代においてもその真価が再認識されています。