狂言面「猿」は、「動物の仮面」と題された展覧会で展示されている作品です。この作品について、その背景、制作意図、技法、素材、意味、そして評価や影響について詳しくご説明いたします。
どのような背景・経緯・意図で作られたのか? この「狂言面 猿」は、日本の伝統芸能である狂言に用いられる面の一つであり、室町時代から安土桃山時代にかけて制作された十六世紀の作品とされています。 狂言という芸能は、飛鳥時代に大陸から伝わった伎楽を源流とし、その後発展した舞楽や能とともに、仮面を用いる多様な芸能として栄えました。 仮面は、神や鬼、あるいは人間だけでなく、動物を表すためにも多種多様なものが作られてきました。この狂言面「猿」も、そのような動物を主題とした仮面の一つです。 狂言の演目には、「靭猿(うつぼざる)」や「猿座頭(さるざとう)」、「猿聟(さるむこ)」など、猿が登場するものが多くあります。 特に「靭猿」では、子方の狂言師がこの猿の面をつけ、愛くるしい姿としぐさで観客を魅了します。 「狂言師の稽古は猿に始まり狐に終わる」という言葉があるように、「靭猿」の子猿役は、狂言師が初めて舞台を踏む重要な役であり、この面は芸の道の出発点という意味合いも持っています。 「靭猿」は、小猿の毛皮を巡って猿回しと大名が対立するものの、予期せぬ展開で幸福な結末を迎える、おめでたい雰囲気に満ちた名作として知られています。 この面は、そうした舞台の喜びや、猿の持つ滑稽さ、無垢な表情を表現するために作られました。
どのような技法や素材が使われているのか? 狂言面「猿」の素材としては、一般的に檜(ひのき)が用いられることが多いです。 特に子方が用いる小猿の面では、漆かぶれを避けるためか、裏面は漆を塗らずに白木のまま仕上げられているものもあります。 制作技法としては、まず面の形を下絵に起こし、厚紙などで型紙を作ります。 その後、木材から大まかな形を彫り出し、鑿(のみ)や鉋(かんな)などの道具を使って、猿の顔の特徴である目、鼻、口、頬や額の肉付きなどを詳細に彫刻していきます。 目鼻口は常に彩色後の完成形を思い浮かべながら、丁寧に形が整えられます。 彫刻が完成した後には、胡粉(ごふん)と呼ばれる白い下地が塗られ、その上に黄口朱(きくしゅ)や雲母(うんも)などを混ぜた絵の具で彩色が施されます。 目には金泥が塗られ、口や皺(しわ)の隈取(くまどり)には赤味の強い鎌倉朱(かまくらえびす)が用いられます。 最後に、煤(すす)や墨(すみ)などで古色(こしょく)を施し、松煙(しょうえん)や薄墨、あるいは臙脂(えんじ)を使って隈取を落ち着かせ、全体の調和を図ります。 また、写実的な猿の毛並みを描き加える場合もあります。
どのような意味を持っているのか? 狂言面「猿」は、狂言の舞台において、人間味あふれる猿のキャラクターを演じるために使われます。猿は、その賢さや機敏さ、あるいは人間を模倣する滑稽さから、古くから親しまれてきた動物です。 また、日吉山王神の使いとされるなど、神聖な意味合いを持つこともあります。 狂言の演目では、猿は愛嬌のある役柄として描かれることが多く、観客に笑いや安らぎをもたらします。例えば「猿聟」という演目では、役者全員が猿の面をつけ、猿の仕草や鳴き声を交えながらも、人間の言葉で物語を進行させ、独特のユーモアを生み出します。 この面は、ただ猿を模しているだけでなく、子方が演じることで生まれる無邪気さや、舞台全体のめでたさを象徴する意味合いも持っています。
どのような評価や影響を与えたのか? この狂言面「猿」は、東京国立博物館で開催される「動物の仮面」という特集で、「今日でもわかりやすく写実的に表わされた」面として紹介されています。 数ある動物の仮面の中でも「ひときわ目を引く」作品の一つとして評価されており、人々が動物に寄せる眼差しや親しみを具現化したものとして、来館者に多様な表現を体感させる役割を担っています。 狂言の舞台においては、子方の初舞台に用いられることで、観客に強い印象を与え、狂言の伝統や技芸が次世代へと受け継がれていく様子を象徴しています。 「猿に始まり狐に終わる」という言葉は、この猿の面が狂言師の基礎となる重要な役柄を担い、芸の始まりを示す面として、後進に多大な影響を与えてきたことを示しています。 この面を通して演じられる猿のキャラクターは、狂言が持つユーモラスで人間味あふれる世界観を観客に伝え、日本の伝統芸能の魅力を広める上で重要な役割を果たし続けています。