興福寺の多聞天立像について、以下の情報が見つかりました。
作品の背景・経緯・意図
- この多聞天立像を含む興福寺中金堂の四天王立像は、鎌倉時代の一三世紀に制作されました。
- 興福寺は治承四年(一一八〇年)の平家による兵火で、東大寺とともにほぼ全焼しました。この作品は、その後の復興事業の中で造像されたものです。
- 当初は興福寺北円堂に安置されていた可能性が高いとされています。北円堂は藤原不比等の追善のために建てられたお堂で、治承の兵火で焼失後、建暦元年(一二一〇年)頃に建物が再建され、建暦二年(一二一二年)頃に仏像が完成しました。この時の仏像造像を担当したのが、運慶とその一門でした。運慶は息子六人を含む一門を率いて、奈良時代に北円堂に安置されていた九躯の仏像を復興しました。
- 興福寺は、焼失した仏像の「ありし姿」を踏襲したものを発注したとされており、運慶は奈良で幼少から見てきた古い仏像の姿、つまり奈良時代の様式を取り入れつつ、慶派独自の写実的な表現を加えて再興しました。
- この四天王立像は、以前は興福寺の南円堂に安置されていましたが、中金堂の落慶に伴い、二〇一八年に中金堂へ移されました。中金堂は興福寺の中心となる重要な建物であり、この新しい空間に最も調和する像として選ばれました。
- 「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」という展示会タイトルですが、展示会では、この多聞天を含む中金堂の四天王立像も、かつて北円堂に安置されていたとされる像として、運慶晩年の傑作である弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像とともに一堂に展示され、鎌倉復興当時の北円堂内陣の再現を試みています。
技法や素材
- 鎌倉時代の慶派仏師の作品に共通する特徴として、ダイナミックな写実主義が挙げられます。力強い表情と体格、写実的で存在感のある衣文が特徴です。
- この多聞天立像も、力強く躍動感にあふれる姿をしています。
- 奈良時代の天平彫刻を踏まえつつ、翻る天衣を廃し、すっきりとした下半身を採用しています。足元の甲や脛当の写実的な表現、中央に寄せられた面貌は、東大寺法華堂の金剛力士像を彷彿とさせるといわれます。
- 特に注目すべき技法として「玉眼(ぎょくがん)」が用いられています。これは、水晶をはめ込むことで、あたかも生きているかのような輝きとリアリティを仏像の目に与えるものです。
- 北円堂の四天王像は、かつて塑像(粘土で造った像)で、黒目の部分に碁石のような黒い石などをはめ込んでいたとされ、運慶はそれを木彫で踏襲しました。このこだわりは、運慶が奈良時代の北円堂の仏像を忠実に復興しようとした姿勢を物語っています。
- 素材は「カツラ材」で造られているとされます。
意味
- 多聞天は、仏教の四天王の一尊であり、北方を守護する仏教の守護神です。単独では毘沙門天とも呼ばれます。
- 仏堂の四隅に安置され、本尊や仏堂を守護する役割を持っています。
- 運慶の作品は、仏像を信仰の対象であると同時に、優れた美術品であることを広く知らしめました。
- 力強さや写実性は、武士が台頭してきた鎌倉時代という世の中を象徴するものでした。
評価や影響
- 運慶は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師で、日本の仏像彫刻を語る上で筆頭に挙げられる人物です。
- 力強い表情と体格、写実的で存在感のある衣文といった作風を確立し、そのアプローチと作風は、後世の仏師や彫刻師に多大な影響をもたらしました。
- 運慶の作品は「ダイナミックな写実主義」と評され、東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)は、その象徴ともいえる作品です。
- この多聞天立像を含む興福寺の四天王立像は、運慶一門によるものとされ、鎌倉復興期を特徴づける力強い像として評価されています。
- 近年、この中金堂の四天王立像が、もともと北円堂に安置されていたという説が有力視されており、運慶一門の作品である可能性が高く、研究の注目を集めています。
- 二〇二五年開催の特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」では、この多聞天立像がメインビジュアルやグッズになるほど、その人気と評価が高いことがうかがえます。
- 展示では、三次元計測とCG検証を経て、放射状に外を向く配置で展示され、静謐な三尊像と激しい動勢を持つ四天王像の対比が、空間を一層引き締める効果をもたらしていると評価されています。