興福寺中金堂に安置されている四天王立像のうちの広目天について、詳細を説明します。
この広目天立像は、鎌倉時代の一三世紀に制作されたと考えられており、現在は奈良の興福寺中金堂に安置されています。もともとは興福寺の北円堂に安置されていた四天王像で、運慶とその一門によって造像された可能性が高いと近年では有力視されています。しかし、かつて南円堂に安置されていたとする説もあり、その所在については研究が進められています。中金堂は興福寺の中心となる重要な建物で、創建以来、度重なる焼失と再建を繰り返し、平成三十年に復元落慶しました。
制作の背景としては、治承四年(一一八〇年)の南都焼討によって興福寺全体がほぼ全焼し、北円堂も失われたことが挙げられます。その後、復興が進められ、承元四年(一二一〇年)に堂が竣工し、建暦二年(一二一二年)頃に仏像群が整えられました。この造像を担ったのが、当時すでに名声を確立していた運慶とその一門でした。彼らは奈良時代以来安置されていた九体の仏像を復興しました。
技法や素材については、寄木造、彩色、彫眼で、桂材が使われています。像高は百九十七点五センチメートルです。この四天王立像は、沓を履き、岩座に立ち、腰を大きくひねるなど、動きのある力強い姿が特徴で、鎌倉再興期を特徴づける像とされています。特に、瞳には別材を嵌め込む玉眼という技法が用いられており、写実的な表現に寄与しています。また、かつての北円堂の四天王像が塑像であったことを踏まえ、運慶は木彫でありながら塑像の瞳のように黒目の部分を少し盛り上げて彫り上げ、別材を埋め込んだように見せる工夫を施しています。衣服が背後にはためく表現や、顔のパーツを中心に寄せた造作は、奈良時代の様式も踏襲しているとされています。
広目天は、仏教の守護神である四天王の一尊で、西方を守護する神とされています。仏堂の四隅に安置され、本尊や仏堂を守る役割を担います。その力強く躍動感あふれる姿は、見る者に仏の存在を実感させようとした鎌倉時代の人々の要望に応えるものであったと考えられます。
この広目天立像を含む興福寺の四天王立像は、日本の彫刻史上において高く評価されています。特に、生きているかのような現実感に富んだ写実的な表現は、運慶の真骨頂とされ、鎌倉時代の彫刻の輝かしい時代をリードしました。これらの像は、北円堂の弥勒如来坐像や無著・世親菩薩立像とともに、静と動のコントラストをなし、運慶一門の卓越した造形力を示しています。近年まで南円堂に安置されていましたが、中金堂の落慶に伴い現在の場所に移されました。
特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」では、この中金堂の四天王立像を含む、興福寺の国宝仏七軀が一挙に公開され、運慶晩年の傑作として注目されています。賑やかな装飾と激しい表情で表された四天王立像は、運慶の革新的な作風と、それが後世に与えた影響を伝える重要な作品群の一つです。