興福寺に安置されている国宝「四天王立像(増長天)」について、詳細を説明します。
この「四天王立像(増長天)」は、鎌倉時代である13世紀に制作されました。元々は興福寺の北円堂に安置されていたものと考えられていますが、現在は中金堂に安置されています。近年の研究では、像の肉身色などから、かつて増長天とされていた像が広目天、持国天とされていた像が増長天であるといった見直しも行われています。
興福寺は、治承4年(1180年)の南都焼討ちで大きな被害を受け、その後、復興が進められました。 この復興期において、運慶をはじめとする慶派仏師が中心的な役割を担い、多くの仏像が造られました。 北円堂は養老5年(721年)に創建されましたが、平安時代の二度の火災で焼失し、鎌倉時代初期の1212年頃に運慶一門によって再興されています。, その際、弥勒如来像や無著・世親菩薩立像とともに、この四天王立像も安置されたとされています。,, 四天王は、仏教世界の中央にそびえる須弥山の四方を守護する存在であり、寺院では本尊を囲むように配されます。, この像は、南都復興という当時の時代の要請に応え、仏教の守護という強い意図をもって制作されたと考えられます。
この四天王立像は、木彫によって制作されています。慶派の仏像は寄木造が主流であり、大きな像を効率的に制作するために分業制が敷かれていました。 増長天は左手を挙げて戟(げき)を突き、右手を腰に当てており、力強い動勢を表しています。 肉身の色は増長天を赤に塗り分けるのが一般的です。 運慶一門の仏像の特徴として、写実性と力感あふれる表現が挙げられます。, 特に、瞳には水晶を用いた玉眼(ぎょくがん)の技法が多用されており、これにより仏像に生々しい迫力が与えられています。,, 興福寺の四天王像においては、かつての北円堂の塑像(粘土で造った像)の瞳に黒い石などをはめ込んでいた表現を、運慶は木彫で踏襲し、瞳を少し盛り上げた形に彫り上げ、別材を埋め込んだかのように見せる工夫が施されています。 また、着衣や甲には、各種花文を主体として象、虎、孔雀といった鳥獣や密教法具をまじえた多彩な彩色文様が鮮やかに残っており、当初の銅製光背や宝冠、邪鬼を完備しているなど、保存状態の良さも特筆されます。
増長天を含む四天王は、仏教の教えと信仰者を守護する護法善神(ごほうぜんじん)です。増長天は南方を守護し、仏法を増し広める役割を担っています。 この像の制作された鎌倉時代は、武士が台頭し、力強い写実表現が求められるようになった時代です。 運慶の作品は、そうした時代の気風を反映し、内面に秘めた力を感じさせる迫真の写実表現と、動的なポーズによって、見る者に強い印象を与えます。,, 邪鬼を踏みつける姿は、仏法を犯す邪神を退け、仏教世界を守るという強い決意と力を象徴しています。
興福寺の四天王立像は、鎌倉再興期を特徴づける力強く、動きの大きい像として高く評価されています。 運慶は写実性と力感にあふれた木彫で仏教美術の金字塔を打ち立て、現存作品の全てが国宝・重要文化財に指定されています。 この四天王立像も国宝に指定されており、慶派の仏師の手によるものとみられ、堂々として力強く、動勢の把握も的確で、この種の四天王像の中でも出色の出来栄えであると評価されています。, 運慶が東大寺南大門の金剛力士像の造立で南都復興における慶派の存在感を最大のものとしたように、彼の写実性と人間味に富んだ表現は、その後の仏像彫刻に大きな影響を与えました。, 特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」では、この四天王立像が、運慶晩年の最高傑作である弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像とともに展示され、鎌倉時代の北円堂の内陣が再現されることで、運慶芸術の神髄を体感できる機会が提供されています。,,,,