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四天王立像(持国天) (Standing Jikokuten (Dhrtarastra), of the Shitenno (Four Deva Kings))

興福寺蔵の国宝「四天王立像(持国天)」は、鎌倉時代・13世紀に制作された、力強い表現が特徴の仏像です。この像は現在、興福寺中金堂に安置されていますが、もともとは運慶が晩年に手がけた興福寺北円堂の再建時に、運慶とその一門によって制作されたものと考えられています。

どのような背景・経緯・意図で作られたのか? この持国天像を含む興福寺の北円堂諸像は、治承4年(1180年)に平重衡による南都焼討ちで興福寺の伽藍がほぼ全焼した後の、復興事業の一環として造られました。北円堂の再建は建暦元年(1210年)頃に建物が完成し、仏像は建暦2年(1212年)頃に完成したと考えられています。この時期は、貴族社会から武家社会へと政治の中心が移り変わる激動の時代であり、仏教美術においても、それまでの平安時代の穏やかで優美な様式から、より写実的で力強い表現が求められるようになっていました。運慶とその工房は、こうした時代の要請に応える形で、生命力にあふれる仏像を次々と生み出しました。特に北円堂では、本尊の弥勒如来坐像と脇侍の無著・世親菩薩立像、そして四天王立像が一体となった「祈りの空間」を再現する意図がありました。四天王像は、本尊や仏法を守護する役割を担い、その威厳と迫力によって堂内の空間を引き締めています。

どのような技法や素材が使われているのか? この持国天像は木彫で制作されています。運慶とその一門が多用した寄木造(よせぎづくり)の技法が用いられていると考えられ、これにより、巨大で複雑な姿勢の像も制作可能になりました。木材を組み合わせて彫り出すことで、ダイナミックな動きや細やかな表現が実現されています。また、鎌倉時代彫刻の大きな特徴である「玉眼(ぎょくがん)」の技法は、通常、水晶をはめ込んで目を表現し、あたかも生きているかのような輝きとリアリティを生み出しますが、四天王像においては、奈良時代の塑像(粘土像)の技法を意識し、別材を埋め込んだような効果を木彫で表現する独自の工夫が見られます。これは、奈良時代の仏像に見られる瞳に黒い石などをはめ込む技法を、木彫で再現しようとした運慶の奈良時代へのオマージュとされています。衣のひだ(衣文)は深く刻まれ、その下の体の量感や筋肉の張りまでもが見事に表現されており、躍動感あふれる造形が特徴です。爪先などの細部に至るまで、徹底した写実性が追求されています。

どのような意味を持っているのか? 四天王とは、仏教において世界の四方を守護する護法善神であり、持国天は東方を守る役割を担っています。この持国天像の、激しい表情、筋肉の隆起した肉体、そして力強いポーズは、邪悪なものを退け、仏法と信仰者を護るという強い意志と迫力を表しています。その写実的で生々しい表現は、当時の武士階級の好みを反映したものであり、力強さの中に精神性が宿る、鎌倉時代ならではの仏像の理想像を示しています。また、奈良時代の東大寺法華堂の金剛力士像などに見られる、平安時代の長大な裳裾を避けた潔い下半身の造形や、顔のパーツを中央に寄せた「への字口」といった表現は、運慶が奈良時代の力強い仏像表現を深く意識し、それを木彫で現代に蘇らせようとした意味合いも持ちます。

どのような評価や影響を与えたのか? 興福寺北円堂の四天王立像は、運慶晩年の傑作群の一つとされており、「日本彫刻史上の到達点」とも評される運慶芸術の神髄を示す作品です。これらの像は、従来の優美な和様彫刻とは一線を画し、内実を伴った肉体表現や、個性を感じさせる写実性を確立しました。その力強く、迫真的な造形は、見る者に強い印象を与え、後の仏像彫刻に大きな影響を与えました。運慶の創り出した鎌倉新様式は、現実感あふれる表現を仏像にもたらし、その後の仏師たちに受け継がれていきました。この持国天像を含む四天王立像は、その芸術的価値の高さから国宝に指定されており、日本彫刻史における重要な遺産として高く評価されています。