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弥勒如来坐像 (Seated Miroku Nyorai (Maitreya Buddha))

運慶

興福寺北円堂に安置されている運慶作「弥勒如来坐像」について、詳細に説明します。

この作品は、鎌倉時代初期、建暦2年(1212年)頃に制作された、国宝の仏像です。現在は奈良の興福寺北円堂に安置されていますが、通常は非公開であり、春と秋の特別拝観の時期にのみ公開されています。最近では、修理完成を記念し、約60年ぶりに寺外での特別展で公開される予定もあります。

どのような背景・経緯・意図で作られたのか 興福寺北円堂は、興福寺の創建者である藤原不比等の追善供養のために養老5年(721年)に創建されました。 しかし、度重なる火災に見舞われ、特に治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討で北円堂も焼失してしまいました。 その後、鎌倉時代に入り、1210年頃に北円堂の再建が果たされ、それに伴い新たな仏像が造立されることになります。 この弥勒如来坐像は、法相宗における弥勒信仰の本尊として、弥勒菩薩が五十六億七千万年後に成仏した姿を表しています。 造仏の経緯は、当時の関白・近衛家実の日記『猪隈関白記』や、弥勒如来坐像の台座内に納められていた願文などから詳しく分かっています。 願文には建暦2年(1212年)の年号が記されており、この像がその頃に完成したことが示されています。 この像は、運慶が棟梁として慶派の仏師たちを率いて制作にあたった晩年の傑作の一つとされており、特に弟子の源慶が中心となって造られたことが、台座内枠に墨書された多くの慶派仏師の名前から分かっています。 源慶、静慶、運賀、運助、運覚、湛慶、康弁、慶運、康勝といった仏師たちが名を連ねています。 運慶とその一門は、焼失した北円堂の仏像群を再興するという重要な役割を担いました。

どのような技法や素材が使われているのか この弥勒如来坐像は、像高約141センチメートルで、カツラ材を用いた寄木造り(よせぎづくり)で造られています。 寄木造は、複数の木材を組み合わせて像を造る技法で、これにより大型の像を制作しやすくなり、また木材の乾燥によるひび割れを防ぐ効果もあります。 像の眼には、玉眼(ぎょくがん)という技法が用いられています。これは水晶をはめ込んで仏像の目を表現する技法で、光を反射して像に生き生きとした表情を与えることができます。 表面には漆箔(しっぱく)が施されており、金箔が貼られていたと考えられます。 しかし、長年の間に金箔は剥落していますが、それが現在の像に落ち着いた雰囲気を与えています。 像の胎内には、建暦2年(1212年)の年号が書かれた願文や経巻、像高約7.1センチメートルの小さな弥勒菩薩像、水晶製の心月輪(しんがちりん)などが納入されていました。 心月輪は、密教で悟りを求める清浄な心を表すとされています。 運慶は、かつての北円堂にあった塑像(粘土で造った像)の眼の表現、特に黒目に碁石のような黒い石をはめ込む技法を、木彫で踏襲したとも言われています。

どのような意味を持っているのか 弥勒如来は、釈迦の次に仏となることが約束された「未来仏」であり、五十六億七千万年後にこの世に現れて人々を救済すると信じられています。 興福寺北円堂の弥勒如来坐像は、まさにその成仏した姿を表しており、弥勒信仰の中心となる本尊です。 この像の厳格でありながらも、ふっくらとした頬や柔らかな表情は、人々を包み込むような包容力を感じさせると評価されています。 胎内に納められた願文や小さな弥勒菩薩像などは、この像に込められた人々の深い信仰心と、未来への願いを象徴しています。

どのような評価や影響を与えたのか この弥勒如来坐像は、興福寺北円堂に安置されている無著・世親菩薩立像とともに、運慶晩年の最高傑作として広く知られています。 鎌倉時代木彫像の頂点を示す作品の一つとされ、その静かな面相、ほどよい肉付き、整った衣文(えもん)などが特徴です。 運慶とその慶派仏師たちが手がけたこの像は、鎌倉新様式と呼ばれる写実的で力強い表現を確立し、その後の日本彫刻に大きな影響を与えました。 特に、表情の豊かさや体の量感表現は、見る者に強い印象を与えます。 興福寺北円堂の仏像群は、運慶の仏像が安置される空間をそのまま伝える貴重な例として、その歴史的・美術的価値が高く評価されています。 北円堂の仏像は通常非公開であるため、その希少性も評価を高める要因となっています。 約60年ぶりの寺外公開となる特別展は、多くの人々にこの傑作を間近で鑑賞する貴重な機会を提供します。