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レオニー嬢

Pablo Picasso

ピカソの「レオニー嬢」は、詩人マックス・ジャコブとの深い友情と、美術と文学の融合への挑戦から生まれた、パブロ・ピカソの初期キュビスムを代表する重要な版画作品です。

どのような背景・経緯・意図で作られたのか? この作品は、1910年に制作され、翌1911年に刊行されたマックス・ジャコブの詩集『聖マトレル』の挿絵として発表されました。ピカソとジャコブは1901年にパリで出会い、モンマルトルのアトリエ「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」で共同生活を送る中で深い親交を育みました。ジャコブはピカソにフランス語を教え、ピカソはジャコブにスケッチの技法を伝えるなど、二人の友情は互いの芸術に大きな影響を与え合いました。 ジャコブの詩は、夢想と奇想、聖性と滑稽さが交錯する独特の世界を持ち、その幻想的で不可解な言葉は、ピカソにとってキュビスムの解体的な思考や抽象表現への道を切り開く刺激となりました。 詩集の出版は画商で出版者でもあったカーンワイラーの企画であり、当初はアンドレ・ドランが挿絵を手がける予定でしたが、ドランが辞退したことでピカソに依頼が回ってきました。 ピカソはこの詩集のために4点のエッチングを制作し、そのうち2点が「レオニー嬢」を描いています。詩の主人公マトレルには貧しいパリっ子で裁縫師の恋人レオニーがおり、ピカソは特にレオニーに興味を抱きました。 挿絵は詩の内容を説明するものではなく、詩と共鳴しながらも版画として自立した表現を目指すピカソの意図が込められています。

どのような技法や素材が使われているのか? 本作は、1910年に制作されたエッチング(オーフォルト)という技法による銅版画で、紙に刷られています。一部の版では「Holland van Gelder」という紙が使用されています。 サイズは、おおよそ縦19.6センチメートル、横14.0センチメートルです。 ピカソは早くから銅版画制作に取り組み、1904年頃には友人からエッチングの技術を学びました。 彼にとってエッチングは非常に重要な意味を持つ技法でした。ペンや筆とは異なり、銅版に刻まれる線は、その瞬間の即興性を持ちながらも取り返しのつかない「決定」の痕跡となります。これにより、ピカソは自身の内的なヴィジョンを、より切実に、そして緊張感をもって表現することができました。 この作品における線は単なる輪郭線ではなく、作品の内にある緊張感を伝えています。 版画の刷りはドラートルによって行われました。

どのような意味を持っているのか? 「レオニー嬢」は、言葉と線が織りなす前衛的な肖像として位置づけられます。 描かれた人物の顔は左右非対称で、片側の眼がやや誇張されており、表情にはどこか虚ろな雰囲気が漂っています。これは、キュビスムにおける多角的な視点や対象の解体を思わせる表現であり、作品の中に強い緊張感が宿っています。 この作品は、芸術とは何かを根源から問いかける静かな問いかけであり、今もなお鑑賞者に新たな解釈と共鳴を促し続けています。 詩的な世界に触発され、線という最も根源的な造形手段で文学の精神を視覚化しようとしたピカソの試みを示しています。

どのような評価や影響を与えたのか? 「レオニー嬢」は、ピカソの挿絵芸術の中でも特に重要な位置を占める作品です。 1912年にミュンヘンで開催された第2回「青騎士」展では、ドイツ表現主義の作品とともに展示されました。これは、ヨーロッパの前衛美術の舞台において、キュビスムの版画が登場した最も初期の例の一つとして知られています。 この作品は、その後の美術史において、ピカソがキュビスムの探求を版画というメディアでいかに展開したかを示す重要な証拠となっています。提示された「ピカソ 青の時代を超えて」という展示会のタイトルは、ピカソが初期の「青の時代」(1901年から1904年)を経て、キュビスムという革新的な表現へと移行していった画業全体に焦点を当てたものですが、「レオニー嬢」が制作された1910年は、まさにその「青の時代を超えて」キュビスムの実験が深く進められていた時期にあたります。 この作品は、ピカソの創造的なプロセスと、絵画芸術に挑戦し続けた彼の絶え間ない探求の一端を伝えるものとして、高く評価されています。