Pablo Picasso
ピカソの作品「貧しき人々」について、その背景、経緯、意図、技法、素材、意味、そして評価や影響について詳しくご説明します。
この作品は、パブロ・ピカソが二〇世紀初頭に制作した、非常に重要な版画作品です。
1.制作された背景、経緯、意図について
「貧しき人々」は、一九〇五年に制作されました。この時期は、ピカソの画業において「青の時代」から「バラ色の時代」へと移行する、まさに転換点にあたる時期です。
「青の時代」とは、一九〇一年から一九〇四年頃にかけての時期を指します。親友カルロス・カサジェマスの自殺という個人的な悲劇や、ピカソ自身がパリとバルセロナを行き来しながら貧しい生活を送っていた経験から、この時代の作品は、悲しみや苦悩、貧困といったテーマが支配的でした。画面全体が冷たい青色を基調とし、社会の周縁に生きる盲人、囚人、貧しい母子など、疎外された人々の姿が描かれました。
一九〇四年、ピカソはパリのモンマルトルにあった「洗濯船」と呼ばれるアトリエに定住し、フェルナンド・オリヴィエという女性と出会い、関係を始めます。彼女との出会いが、ピカソの心に安らぎをもたらし、次第に彼の作品の色調は、青から暖かみのあるバラ色へと変化していきます。これが「バラ色の時代」の始まりです。この時期のテーマは、サーカスの人々、道化師、曲芸師などが中心となりますが、初期には「青の時代」の沈鬱な精神性を引き継ぎながらも、人間に対するより深い洞察が加えられていきました。
「貧しき人々」は、まさにこの移行期に制作されたもので、版画という形で「青の時代」のテーマを総括しようとするピカソの意図が感じられます。彼自身もまだ経済的に困窮しており、高価な新品の銅版を購入できず、刷り師から一度使われた亜鉛板をもらって制作しました。 この作品は、貧しさや病気、不幸といった人間の避けられない宿命に耐えながら、互いに助け合い、慈しみ合って生きる人々の美しさを描こうとしたものです。
2.どのような技法や素材が使われているのか?
この作品は「エッチング」という技法を用いて制作されました。エッチングは、銅や亜鉛の版に防食剤を塗った後、ニードルで絵を描き、露出した部分を酸で腐食させることで凹版を作り、そこにインクを詰めて紙に刷る版画技法です。
「貧しき人々」では、ピカソの正確なデッサン力と、細密な線によって緻密に描写されています。重ねられた繊細な線は画面に緊張感を与え、強い明暗のコントラストが場面をドラマティックに演出し、登場人物たちの深い情感を際立たせています。 使用された素材は、亜鉛板(ジンク版)と、刷られた紙(和紙が用いられることもあります)です。
特筆すべきは、作品情報にある「一九〇五年制作(一九一三年刷り)」という点です。これは、ピカソが一九〇五年頃に版の原画(エッチング)を制作し、実際に紙に刷られて世に出たのは一九一三年だったことを示しています。これは、当時画商のアンブロワーズ・ヴォラールが、この作品を含む一五点(一点は版の状態が悪く破棄)の版画原版をピカソから買い取り、「サルタンバンク・シリーズ」と題して二五〇部限定で出版したためです。
3.どのような意味を持っているのか?
「貧しき人々」の画面には、テーブルを囲むやせ細った男女が描かれています。テーブルにはワインの瓶と一切れのパンしかないという、質素な食卓です。男性は目が不自由であるかのように不自然な方向を向いていますが、しっかりと女性の肩を抱き寄せています。女性の口元には、かすかな微笑みが浮かんでいるようにも見えます。
この二人は視線を交わしたり、言葉を交わしたりすることはありませんが、互いに寄り添い、同じ食事を分かち合おうとする様子から、強い絆と静かな尊厳が感じられます。 作品全体に満ちる沈黙の気配は、「青の時代」の精神性と通じるものがありますが、女性の微笑みは、貧しい生活の中にも、支え合う喜びや希望を見出そうとする「バラ色の時代」への兆しを示唆しています。 この作品は、貧困や孤独、盲目といった「青の時代」の典型的なテーマを扱いつつも、感傷的ではない、人間存在の厳粛さや精神の強さを表現しています。
4.どのような評価や影響を与えたのか?
「貧しき人々」は、「サルタンバンク・シリーズ」(または「貧しき食事シリーズ」)の最初の一点であり、ピカソ初期の版画作品における最高傑作の一つとされています。
この作品の完成によって、ピカソは銅版画のエッチング技法を完全に習得したと評価されており、翌一九〇五年には、さらに一四点の銅版画を制作しました。 この作品は「青の時代」の終わりと「バラ色の時代」の始まりという、ピカソの画業における大きな転換点に制作されたものであり、二つの時代をつなぐ「橋」のような存在として重要視されています。 ピカソが社会の周縁にいる人々に対し、単なる同情ではなく、彼らの内なる強さや生きることの厳しさを敬意をもって見つめた、画家のまなざしが表れています。
美術市場においては、この「サルタンバンク・シリーズ」の初期の刷り、特に一九一三年のヴォラール版以前に刷られたものは非常に高く評価されており、高額で取引されています。 国立西洋美術館に所蔵されているこの作品は、日本でピカソの初期の芸術性を知る上で貴重な一点です。現在開催されている、または過去に開催された「ピカソ 青の時代を超えて」のような展覧会では、「青の時代」を単なる一様式としてではなく、その後のキュビスムをはじめとする革新的な表現を生み出す原点として捉え直し、ピカソの幅広い創作活動を辿る上で、この作品が重要な位置づけとして紹介されています。