ニコラ・プッサン / Nicolas Poussin
ニコラ・プッサン作「妃の肖像(The Head of Queen Zenobia)」について、背景、技法、意味、評価と影響についてご説明します。
背景・経緯・意図
ニコラ・プッサン(1594-1665)は、17世紀フランスを代表する古典主義の画家で、その生涯の大半をローマで過ごしました。プッサンの芸術は、秩序、調和、理性に基づき、感情の激しさやドラマティックな表現を抑制し、冷静で知的なアプローチを好んだことが特徴です。彼は、古代ギリシャ・ローマの美学を模範とし、哲学的なテーマや歴史的な出来事を描くことを重視しました。プッサンにとって、絵画は単なる感情表現の手段ではなく、知識と教養の表現であったとされています。
「妃の肖像(The Head of Queen Zenobia)」は、プッサンの素描作品の一つで、スウェーデン国立美術館に所蔵されています。この作品の主題となっているのは、古代アルメニアの女王ゼノビアです。ゼノビアの物語は、1世紀頃のアルメニア王位継承問題に由来します。アルメニアの王ラダミストゥスは、ローマ軍の介入や近隣諸国の干渉により王位を追われた後、復位しますが、その際に国内の諸都市を弾圧したため反乱が起こります。懐妊中であった妻ゼノビアを連れて逃亡する途中、ゼノビアは身重のため長時間馬に乗ることができず、追っ手を逃れるためにアラス川の土手で、夫に自分を殺して置いていくように懇願します。負傷して川岸にいたゼノビアは、羊飼いに発見され、その後アルメニアの新王ティリダテス1世のもとで手厚くもてなされたとされています。
この素描は、プッサンの油彩画「アラス川の土手で見つかるゼノビア女王」(エルミタージュ美術館蔵)の構成を検討する中で制作された習作の一つと考えられます。プッサンは、作品の構成のために複数の素描を制作しており、シャンティイのコンデ美術館、ウィンザー城、プーシキン美術館にそれぞれ異なる段階の素描が残されています。スウェーデン国立美術館の素描は、エルミタージュ美術館の絵画と最も近い構成を持っているとされています。
プッサンは「素描は常に思想に従わなければならない」と述べており、素描や構図の全てが主題の性質に合致するように凝ったり気取ったりせず、洗練させるべきではないと考えていました。 彼は、ミニチュアの舞台を作り、小さな蝋人形を並べて人物の配置や光の効果を調べた後にキャンバスに描くという手法を用いており、知性を刺激するデッサンを重視し、明確で均整の取れた画面構成を形作りました。
技法や素材
この作品は、「ペン、褐色インク、褐色の淡彩、紙」という素材と技法で制作されています。
ペンとインクによる素描は、プッサンが構図のアイデアを練り、人物の配置や感情表現、そして物語の展開を明確にするための重要な手段でした。褐色のインクは、落ち着いた色調で奥行きや陰影を表現するのに適しており、淡彩(ウォッシュ)を用いることで、光と影の繊細なニュアンスや、量感、立体感を表現しています。プッサンは、単なる写実的な描写にとどまらず、古代の彫刻を手本にした均整の取れた人体比例や、物語に適した衣装、そして主題に即した情趣を表現するために、素描を重視しました。,
意味
「妃の肖像(The Head of Queen Zenobia)」に描かれているのは、逆境に直面しながらも、品位と気高さを失わないゼノビア女王の姿です。古代の歴史物語や神話を題材とすることは、プッサンの作品に共通する特徴であり、そこには普遍的な人間ドラマや哲学的な思索が込められています。,
ゼノビアの物語は、生と死、運命、そして人間の尊厳といった深いテーマを含んでいます。身重の体で逃亡し、自らの命を絶つことを夫に懇願するという悲劇的な場面において、プッサンはゼノビアの表情を通して、その内面の強さや悲劇性を静謐に表現しようとしたと考えられます。これは、単に歴史的な出来事を描写するだけでなく、人間の本質や社会の構造について深い洞察を提供しようとするプッサンの制作意図と一致しています。
評価や影響
ニコラ・プッサンの作品は、17世紀フランス美術の中心的存在となり、後のフランス王立絵画・彫刻アカデミーの基本理念を築き、フランス古典主義美術の基軸となりました。,
プッサンは、素描を重視し、構想(素描)が重要であるという考え方を示しました。彼は、明確で厳格な構成、調和と秩序を追求し、その知的で哲学的な絵画様式は高く評価されています。,, 「妃の肖像」のような素描作品は、プッサンが油彩画を制作する上での思考プロセスや、古典主義の理想を追求する姿勢を如実に示しています。
彼の作品は、ジャック=ルイ・ダヴィッドやジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルといった新古典主義の巨匠たちに大きな影響を与えただけでなく、後期印象派のポール・セザンヌや20世紀芸術のパブロ・ピカソなども魅了しました。,, 特にセザンヌはプッサンを「自然を理解するための教師」と称賛し、その構成や空間の捉え方において影響を受けています。
スウェーデン国立美術館が所蔵するこの素描は、同館の素描コレクションの中でも特に重要な作品の一つとして位置づけられています。このコレクションは、スウェーデンの国王付き建築家ニコデムス・テッシンとその息子のカール・グスタフによって築かれたもので、世界最高峰の素描コレクションとして知られています。 プッサンの素描は、素描そのものが独立した美術品として評価され、その繊細さ、軽やかさといった造形的な特徴や、手元で気軽に楽しめるという物理的な特徴も評価されていました。