オーディオガイド トップに戻る
0:00
0:00

聖アントニウスの誘惑 / The Temptation of St. Anthony

ジャック・カリヨ / Jacques Callot

ジャック・カリヨ作「聖アントニウスの誘惑」についてご説明いたします。

この作品は、フランスのバロック期の版画家・素描家であるジャック・カリヨ(1592年頃-1635年)が、1635年頃に制作したエッチングによる版画です。これはカリヨが晩年、彼の死の直前に取り組んだ作品であり、彼がこの主題を扱った2作目にあたります。彼は1617年頃にも同名の作品を制作しています。

【制作の背景・経緯・意図】 ジャック・カリヨは、ロレーヌ公国のナンシーに生まれ、ローマやフィレンツェで修行を積んだ後、故郷に戻り活動しました。彼の作品は、当時の宮廷生活、宗教、軍事など、幅広いテーマを詳細に描写することで知られています。 「聖アントニウスの誘惑」は、初期キリスト教の修道士である聖アントニウスが、エジプトの砂漠で瞑想中に悪魔から繰り返し誘惑されたという伝説を題材としています。この主題は中世からルネサンス、そしてバロック期にかけて多くの芸術家によって描かれてきました。カリヨにとって、この作品は神秘的で未知なるもの、特に悪魔や怪物といった存在を探求する版画の理想的な媒体であったと考えられます。

制作の背景には、カリヨ自身の個人的な苦悩が反映されている可能性も指摘されています。1631年に父をペストで亡くした彼の恐怖、あるいは彼自身の胃がんとの闘いが、この「大惨事的な主題」への回帰を促したのかもしれません。 また、悪魔と戦う孤独な聖アントニウスの姿は、「狂気の世界における一般人」の象徴として捉えることもできます。 カリヨがフィレンツェでメディチ家のために制作した、豪華な祝祭や演劇の記録版画の経験も、この作品の劇的な構成に影響を与えている可能性があります。

【技法や素材】 作品は「エッチング、紙」で制作されています。ジャック・カリヨはエッチング技法の革新者として知られ、版画を独立した芸術形式へと高めた人物です。 彼は複数の画期的な技術的進歩をもたらしました。 まず、「エショップ」と呼ばれる、先端が斜めに楕円形になった新しい種類のエッチング針を開発し、彫刻のように膨らみのある線を描けるようにしました。 次に、版を覆うエッチング用グランド(防食剤)の改良にも貢献し、従来のワックスベースの処方ではなく、リュート製造業者のワニスを用いた硬いグランドを使用しました。 これにより、より精緻な線を描くことが可能になりました。

さらに、彼は「マルチ・バイティング(多重腐食)」と呼ばれる技術を駆使しました。これは、酸に浸す時間を変えることで線の太さや濃淡を段階的に変化させる技法です。 彼はこの技術を以前の版画家よりも広範囲かつ洗練された形で使用し、「ストッピング・アウト」という技法を応用しました。これは、酸で軽く腐食させた後、浅く残したい部分をグランドで覆い、再度酸に浸すことで、遠近感、光と影の効果を前例のないほど微妙に表現することを可能にしました。 この繊細な技術によって、カリヨは画面全体に複雑な細部と動きを与え、多くの人物が入り乱れる場面でも、一つ一つのモチーフに生命感を吹き込むことができました。 彼の構図はまるで舞台装置のように構成され、最小限のストロークで小さな人物像を表現する高度なエッチング技術を必要としました。

【作品の持つ意味】 この作品は、聖アントニウスが悪魔的な存在によって試される様子を、想像力豊かに、そしておぞましく描写しています。画面には、鳥、魚、人体、動物の骨などが自由に合成された空想上の怪物たちがひしめき合い、聖アントニウスを取り囲んでいます。 聖人は画面右下、あるいは中央下部に描かれ、悪魔たちや地獄の猟犬、蛇、火を投げつける巨大な悪魔に立ち向かっています。 彼の右足が既に鎖に繋がれている様子も見て取れることがあります。

誘惑の象徴としては、特に魅力的な女性の姿が描かれることがあります。この女性は愛欲の象徴であり、聖アントニウスにグラスを差し出して誘惑しようとしていますが、よく見るとその足は鳥の鉤爪になっています。 聖人の背後には、角の生えた悪魔の化身である老女が彼女を指し示すこともあります。 画面に登場するフェンシングをする悪魔や悪魔的な大砲などは、人間が戦争を仕掛けたり、戦いの真似事をしたりする気まぐれを問いかけるものでもあるかもしれません。

しかし、こうした怪物のイメージに目を奪われがちですが、カリヨは宗教的なメッセージも伝えています。聖人の前の岩には、髑髏や砂時計といった「ヴァニタス(虚栄)」の象徴とともに、十字架や聖書といった「救済」の象徴が置かれていることがあります。これは、作品を見る者もまた、聖人と同じように救済の道と現世の道という選択を迫られていることを示唆しています。 作品に添えられた詩文は、聖アントニウスの揺るぎない信仰と、現世的・超自然的な苦難に対する彼の勝利を語っています。

【評価や影響】 ジャック・カリヨは生前からその才能を高く評価され、彼の版画は美術収集家や裕福なパトロンに求められました。 彼はエッチング技法を革新し、レンブラントやゴヤといった後の著名な画家たちが版画制作にエッチングを用いるきっかけを作りました。

カリヨの作品は、最小限の線で感情とエネルギーを喚起する能力、自発性と精密さの融合で知られています。 彼の膨大な人物像を巧みに配置する能力や、風刺とグロテスクな描写の才能は、ヨーロッパ中でその版画が広く人気を得る要因となりました。 特に、「戦争の悲惨」シリーズに見られるような、戦場の残虐行為を記録した作品群は、19世紀から20世紀にかけて社会意識の高い芸術家に大きな影響を与えました。 「聖アントニウスの誘惑」のような主題におけるカリヨの想像力と細部へのこだわりは、後の世代の芸術家たちにも影響を与え、神秘的で幻想的な世界を描く版画の可能性を広げました。